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せっかく他人と一緒に生きていくなら、めいっぱい変わりたい、めいっぱい楽しみたい。【余命一年、男をかう(吉川トリコ著)】後編

もう完全になんていうか一人のファンとしての口コミみたいになってますが大丈夫ですかねこれ…。
「余命一年、男をかう」(吉川トリコ著)の後半になります。

結婚って、私は性欲とか恋心とか、そういうものから切り離して考えたい派です。(あくまで私が思うに、です)
結婚と恋愛は別なのよ、あまく見てんじゃないわよガキコラとアドバイスをくださる人生の先輩の意図と同じかどうかは分かりませんが、
結婚というのは、私にとっては対人関係というものを、他人というものを、人生をかけて学ぶことであってほしい、と思うんです。
(あくまで私が結婚に望むことなので、もちろん人それぞれお考えはあるかと思います。)
だから、結婚のきっかけが恋愛だろうが、お見合いだろうが、紹介だろうが、お金だろうが、なんだっていい。
その結婚で、何か学びがあるのなら、幸せのヒントが見つかるのなら。
って思います。
だから、唯と瀬名の結婚は、私にとってはとても尊いものに感じるのです。
唯が初めて「生きたい」と思えるようになったのは、瀬名と結婚したからだから。

人が生きる意味を探そうとするのは、意味がないとあまりにも人生は退屈でしんどいことの連続だからだ。
だからみんなだれかを愛そうとし、生きるに足るるなにかを見つけようとするのだろう。
家族とか愛とか友情とか信仰とかいった不確かなものでもないよりましだから。
なにかに縋らないと生きていけないから。
死ぬことなんて、私はなんにも怖くないはずだった。
生き続けなきゃいけないことをむしろ怖れていたはずだった。
いまさらこんなの困る。
生きたくなったら困る。

余命一年、男をかう(吉川トリコ著)

そして、瀬名が、唯の考え方をリスペクトして、どんどん学びに変えていっているから。
それこそが、結婚の醍醐味だと、私は思うから。

「こんなの愛でもなんでもなくて、ただの義務感でやってることじゃねえの?」
(中略)
唯と二人で余命がどうだの難病がああだの言ってる映画を片っぱしから観ていたときに、俺が口にした言葉だ。
(中略)
その手の映画に出てくる恋人役の男たち(中略)はみんな判で押したように忍耐強く、ちんこなんて生えてないみたいな顔して、ただひたすら献身的に大きな愛で闘病中のヒロインを包み込む。
(中略)
「こういうのを若い女の子たちが見て、’私もこんなふうに愛されたーい’なんて涙流しながらドリーム見ちゃうんだろ。
こんな都合のいい男いるかよ、バッカみてえ」
(中略)
「義務感でやってることだとだったとして、なにが悪いの?」
(中略)
「愛でも義務感でもやってることが同じなら、あとは受け取る側の問題じゃないの?そこをいちいち精査して区別する意味が私には分からない」
(中略)
全財産をあげるから死ぬまでそばにいてと、唯は俺に資産総額を提示した。
(中略)
これ以上誠実なプロポーズはないと自信満々に言ってのける唯に、またしてもとんでもない独自理論を出してきたなと最初こそ面食らったものの、よくよく考えたらたしかに金目当てで結婚することのなにが悪いのか、納得に足る理由が見つからなかった。
当人同士が了承済みなら、そんなのそいつらの勝手じゃねえか。
たとえ唯のことを愛していたとしても、映画に出てくる夢の男たちのように振るまうことは俺にはできないだろう。
だけど、そこに金銭が発生するならやれると思った。
あの書き割りみたいに人間みのない恋人役を完璧にやってのけるつもりでいた。
それが愛より劣る行為だなんて俺は思わない。

余命一年、男をかう(吉川トリコ著)

色んな結婚観があると思うし、色んな恋愛があると思うし、色んな生き方があると思います。
どれも間違いではなく、正解ではなく、ただの一つのパターンにすぎません。
人が幸せを感じるトリガーも人によって違います。
どんな時に苦しいと感じて、どんな時に嬉しいと感じるか、完全一致していることなんて、クソ当たり前ですが、ないじゃないですか。
人それぞれ違う、違うんだけど、学びを続けようとすれば、いくらだってアップデートはできる、って思います。
唯と瀬名という二人のキャラクターから、それを改めて思ったし、私もそうでありたい、と強く思わされました。
終わり方に賛否両論はあるかもしれないけど、唯にこれを言わせた著者の吉川トリコさんのお人柄が、私はとても好きです。

長生きは最高のエンターテインメントであり偉業だ。

余命一年、男をかう(吉川トリコ著)


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