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「元旦の午後」は間違った日本語なのか? (承前の2)

3回前の記事からずるずるなし崩しに連載化してしまっている「元旦」語釈論、これまで字書・辞書を大正→明治→江戸とざっとたどってみて、みえてきたことをここで一度まとめてみよう。

  • 現代では「「」は「を示す文字なんだから、「元日の朝」と解釈しないのは間違い」というのが、殊にマスメディアなどでは事実上の規範となっているが、字書・辞書ではそれぞれの解釈に濃淡がある

  • 大正六年初版の『大字典』では、「」は「の意味しか載せていないのに「元」字の頭韻熟語のところでは「元旦=元日」としていて、これが昭和になってもそのまま保たれている

  • 漢和辞典系の字書・辞書では、遅くも二十世紀初頭あたりから元旦=元日」と「元旦=元日の朝」との両論併記の例がみられるようになる

  • 十九世紀に遡ると、国語辞典系の辞書では「元旦=元日しか出てこなくなりさらに古くなると元日同義語の数あるヴァリエーションのひとつに過ぎなくなっていくようにみえる

  • 一方、『康煕字典』『玉篇』のような渡来系の古い型式の字書には、そもそも熟語がほとんど載っておらず、また「の語義は「」「明るいのみにほぼ収斂していくようにみえる

ということで、時代を遡っていくにつれて、字書と辞書とでは「旦」字の解釈が割れていくようにおもわれるのだが、どうしてそうなったのかは一向にみえてこない。

元々は漢語なんだから、いっそのこと華語の古典で初出を探って、そこからくだっていけば、どこで話がおかしくなったのかわかるかも……と考えているところへ、前々回最後の日本語研究者氏のメールが届いたのだった。

とはいえ、古典資料などは手許にないので、ここはせいぜいインターネット上で公開されているものを利用して、それでわかる範囲で探ってみるしかないだろう、と考えはじめた。

明治大正期百科辞典での「元旦」の扱い

そういえば、戦前の百科辞書とかの類いはまだチェックしてみていなかったな、と気づいたので、百科事典系資料の棚を先にみてみることにした。

昭和初期のものをいくつか眺めてみたが、その範囲では「元旦」も「元日」も立項されているものはなかった。時代を上って、大正八年(1919年)刊の大澤米藏『帝國百科全書』

大澤米藏『帝國百科全書』(大正八年十一版 平林社出版部)
大澤米藏『帝國百科全書』(大正八年十一版 平林社出版部)

これに、「ガンジツノセチエ」が出てきた。

大澤米藏『帝國百科全書』(大正八年十一版 平林社出版部)

ガンジツノセチエ 【元日節會】 ▲神武天皇正月しやうぐわつ元旦ぐわんたんに、群臣を集めてさけを賜ひしを始めとすとも云ひ又一說には持統天皇ぢとうてんのう四年正月元旦はじまれりとも稱す、此儀式ぎしき天子てんし紫宸殿ししんでんに出御して群臣ぐんしん百官に酒を賜ふ、先諸司奏しよしそうとて、七曜の御曆おこよみ、氷樣、復赤奏などのことなり、……

大澤米藏『帝國百科全書』(大正八年十一版 平林社出版部)

などと解説されている。

さて、この儀式が元日のいつから始まるものなのか、というところが肝腎だが、帝京短期大学紀要』1982

児玉定子宮廷の食事様式(幕末・明治) -「日本の食事様式」補遺(1)-」の中の p.39(7ページ目)「年中行事の賜宴」のところに、

さて,元日には前述のごとく五摂家の年賀があったが,日が暮れると松明たいまつをとぼして参内し,庭に篝火かがりびをたき,紫宸殿ししんでん蠟燭ろうそくを立てつらねて群臣に冷酒を賜わるという元日の節会せちえ……

とあるから、これはあきらかに「元旦=元日」の例だ。

さらに遡って、明治四十一年(1908年)冨山房編輯局ほか國民百科辭典』。

冨山房編輯局ほか『國民百科辭典』(明治四十一年 冨山房)
冨山房編輯局ほか『國民百科辭典』(明治四十一年 冨山房)

この本のご執筆陣は、校閲者や挿絵画家含めまるまる2ページ分もおられるので、とても書き切れないww

冨山房編輯局ほか『國民百科辭典』(明治四十一年 冨山房)

こちらには、「ガンタン」が立項されていた。

冨山房編輯局ほか『國民百科辭典』(明治四十一年 冨山房)
冨山房編輯局ほか『國民百科辭典』(明治四十一年 冨山房)

ガンタン 元旦 一月一日。古は此日四方拜、御藥、御節句、朝賀、小朝拜、元日節會、内侍所御供等の朝儀あり、今は四方拜及賢所並に皇靈殿御祭典等行はせらる。

これははっきり「一月一日」と書かれている。

明治十九年(1886年)年田村美枝+石橋中和鼇頭大日本國民專用實地有益大全』。

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)
田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』(明治十九年 有益館)

この本の上卷には、語義が書かれているわけではないのだが、「元旦」が何ヶ所かに出てくる。

まず「記事論説之部」。これはひとにみせるための改まった文章、例えば新聞・雑誌のようなマスメディアや自著とかに書く記事などのお手本。

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)

元且グワンタン賀杯ガハイグル」という題名にだけ出てくるのだが、文章の中身をみると「いただくお屠蘇かな〜」という感じではあるものの、時間帯ははっきりとはしない。

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)

次に鼇頭の「徘徊發勺季寄之部」。「徘徊」は「俳諧」、「發勺」は「發句」のことだろう。

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)

これの冒頭、「春」の「一月」「歳且之詞」のところに、門口で立礼をしている裃姿のふたりの図につづいて

「元日」「元旦 元朔」「正朔 歳朝」「鷄旦 改旦」「聖節 東君」「新春 三元」「歳首 上旦」「立春リツシユン」「ハルたつ」「初鷄ハツトリ」「初明」「明の春」……

と並んでいる。「東君」のように「春」の意の語も混じっているから「立春」よりも前の語もすべてが「元日」の同意語ではないようだが、とにかく「元旦」は「歳旦の詞」の単なるヴァリエーションのひとつでしかない。

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)

その下の本文「詩作之部」のつづき、「作例作方」のところにも、

曾孫新 シテ 《二》椒觴 《一》兒女冠笄 シテ各綴行 身作《二》太翁 《一》垂 ントス《二》九十 《一》醉來堪 タリ《レ》喜亦堪 タリ《レ》傷  元旦 陸放翁(引用者註:《》内は返り点)

……と作例のシッポに「元旦」が添えてある。

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)

また、つづいて

上日シヤウジツ 元旦ノヿ鷄旦ケイタン 仝上正朝セイテウ 仝上歓笑クワンセウ ヨロコビワラフ○律回リツカヘル セツノハルニナルヿ……

……と、「元旦」の同意語として「上日」「鷄旦」「正朝」を挙げている。

このあたりをみると「旦=朝とは限らずに、「元旦=元日」と捉えられているように感じられる。ただ、明確にそう書かれているわけではない

明治後期「良妻賢母マニュアル」での「元旦」用例

角川選書441『明治のお嬢さま』(平成二十年初版 角川学芸出版)を著された黒岩比佐子が「明治のお嫁さんマニュアル

と呼んでおられた中上流階級女子教育書のひとつ、大日本女學會婦人寳典』の明治四十一年(1908年)訂正再版5巻組のうちの卷の三

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)
大日本女學會『婦人寳典』(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

鼇頭に、「交際かうさいしをり」というのが載っている。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

これの「はしがき」に書いてあるように、これはよそのお家との交流の際の礼儀作法の一環として、どのような言葉遣いをしたら適切か、というのをお祝い事の場面を例に示したコラムだ。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)
大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

「TPOをわきまえてことばを択ぶのが大事ですよ」という例を示すのに、戦国時代のエピソードを持ってきちゃうあたりが「ん〜、明治時代だな〜」とおもわせられるww

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

さて、これの最初の事例として新年の午前中、当主が新年回りに出かけている間に訪れたその知人らを主婦が応対する、というシミュレーションが「年頭ねんとう」という題で載っている。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

この中で、「現代の女性は男性のように新年早々から年始回りなどしないで、三が日は訪問客のお相手をなさい」という説明がなされているのだが、そこに西洋の礼儀作法でもそうするようにいわれている、という補足があって、ここに「元旦」が出てくる。

……泰西のれいにも、『元旦ぐわんたんは、主婦しゆふいへりて、良人りやうじんおよび、賓客ひんきやくむかへ、年頭ねんとう祝辭しゆくじくべし』とあるにても、くににてすら、女子ぢよしは、男子だんしごと元日ぐわんじつより、づいちはやく、年始ねんしまはりなどせざるものたることをるべし。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

主婦は元日から外をうろうろしてちゃダメよ、お年始に他所のお家へ行くなら4日以降にしなさい」「三が日は家に留まって年始回りの訪問客の接待役に専念なさい」ということなのだから、これは「に限ったことではないと考えてよいだろう。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)
大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

解説につづいて、当時を舞台としたドラマの台本にでもそのまま使えそうな、軽妙な応接のやり取り例が載せられている。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

こういう、雑誌の小説みたいな演出がわざわざなされているのは、読者である女子の興味をそらさないための工夫なのだろう。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

つづいてお客2が登場、夫君の帰宅まで留めおくべき目上の先客と、そこまではしなくてよい次の慌ただしい来訪者とがダブったときのあしらい方も、さり気なく例示されている。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)
大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

それにしても、何人訪問者があるのかわからないのに朝早くからいろいろ支度をして、自らは食事もそこそこに、夫の交友関係を勘案しながら酒食の接待を二日も三日もしなければならないとは、当時の主婦業はなかなか気ぜわしいことだ。こんなことを1日に十数人も相手にやっていたらくたびれ果ててしまうから、だんだん年賀状のやり取りだけで済ませる家が増えていったのも、そりゃ道理だよな〜、とうなづける。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

終いのところにも次のように書かれているから、やはりこの本では「元旦=元日」と解釈していることになろう。

元旦ぐわんたんは、きやく應接おうせついそがはしく、ことに、ゆるゆると、食事しよくじすべきならねば別々べつべつしよくするものとるべし。たゞ夕飯ゆふめしいたれば親戚しんせき知友ちいうなど、ちくつろぎて會食くわいしよくすることもあるべし。

大日本女學會『婦人寳典』卷の三(明治四十一年訂正再版 吉川弘文館)

こうした「良妻賢母マニュアル」みたいな本は、高等女学校がまだ全国各地に普及していなかった当時、その代わりとして通信教育をおこなっていた団体が編み、出版社を通じて刊行していた。主婦の手引をテーマとした出版物は、時代がくだると出版社自身が手がけるようになり、ときにはデパートが企画したりもしたが、やがて婦人雑誌附録の定番となっていったようだ。

明治中期「風俗文化史蘊蓄グラフ誌」での「元旦」用例

次は我が国初のグラフ誌とされる、『風俗畫報』をみよう。明治二十年代の、第六十一號から第七十號までの合本。

風俗畫報編輯『風俗畫報』自六十一號至七拾號合本(明治二十六〜二十七年 東陽堂)

公立図書館などでは、百科事典の棚に雑誌が挿してあることなどまずあり得ないだろうw が、図版研では載っている内容イメージの連想で分類しているため、今回取り上げている資料はどれも同じところに並んでいるのだった。

まずは明治二十六年(1893年)の11月末刊臨時增刊第六十三號

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十一號(明治二十六年 東陽堂)

この号は「江戸歳時記 上」と銘打って、齋藤月岑+長谷川雪旦+長谷川雪堤の『江戸歳時記』『江戸名所圖會』をベースに正月から6月までの季節の江戸風俗を扱っている。

これの「江戸歳時記卷之壹春之部」冒頭「正月」の「元日」項のところ

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十一號(明治二十六年 東陽堂)

には「元旦」は出てこないのだが、添えてある図版「元旦諸矦御登城圖」には思いっきりでっかい朝日が顔をのぞかせている。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十一號(明治二十六年 東陽堂)

ヴィジュアルイメージの与える印象は強烈だ。予備知識なくこの絵を目にしたとしたら、たいがいの人の脳裡には「元旦=元日の朝という思い込みが植え付けられてしまわないだろうか?

同年暮れに出た臨時增刊第六十三號と翌年の新年号にあたる第六十四號は、2冊続けて歳暮年始の風俗史を特集している。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)
風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

第六十三號に載っている、「宮庭年中御行事其一」図。下側に、☝『帝國百科全書』に出てきた「元日節會」のようすが描かれている。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)
風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

つづく「●宮庭正月行事」記事の「元日ぐわんじつ節會せちゑ」には、

……今夜こんや南殿なんでんにしておみたちにみきたまへるなり……

と書いてあるから、これも☝『帝國百科全書』では「元旦=元日」と解釈しているという見方の補強材料となる。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

しかし、だからといって『風俗畫報』でもそう解釈しているかどうかは、「元旦」が使われていないこの記事をみただけでははっきりしない

そこでここからは、「元旦」という語が出てくる記事を片っぱしからひろってみることにする。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

石橋思案●長崎の新年」には、

元旦ぐわんたん年禮ねんれいまはまへ全市ぜんし總鎭守そうちんじゆをも云ふべき、諏訪すは神社じんじや參詣さんけいするをれいとして、年禮ねんれいに來りたる人々に、となへて、鶴龜つるかめの如き目出度めでたかたち打出うちだしたる菓子くわしを、かみつゝみてあたふるをつねとす。

とある。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

年始回りの前に諏訪神社へ初詣でに行く、ということだから「元日の朝」ともとれるが、でも「年禮」そのものは午前中に限らないだろうから「元日」という意味にもとれる

水雲散人●岡崎城の萬歳樂」には、

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

……毎年正月元旦ぐわんたん夜の將さにあけんとする頃別所村べつしよむら万歳まんざいの者素襖すあう風折かざをり烏帽子えぼしいかめしくよそほひ兩刀を從者じゆうしや才藏さいぞう直垂ひたゝれおり烏帽子えぼしに一刀をび共に城門じやうもんの下に至る……

とある。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

これも、新年早朝の行事だから「元日の朝」ともよめるし、「元日」の夜明けごろ、とよんでも別に障りはない。

●元且初湯の祝儀」という無記名記事には、その前ページに挿画がついている。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

おそらく同誌編輯で、この号刊行の一年後、明治二十七年(1894年)暮れに博文館大橋佐平の娘婿・大橋乙羽となった渡邊又太郎

の筆だろうとおもう。☝の論考「<共同研究報告>編集者大橋乙羽」で坪内祐三が強調しておられるように、彼は文筆やメディア編集ばかりでなくヴィジュアルイメージにかかわる才能、つまり図版への関心や絵画の腕前も人並み以上だったからこそ、このような資料としての質の高いグラフ誌を作り上げることができたのだろう。

下の図が、正月のお飾りをした湯屋の番台に、お客の持参したおひねりが積み上がっている光景。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

まつうち初湯はつゆゆあする男女おとこをんなとも祝儀しゆくぎといひて白紙はくしに何程かの鳥目をひねり湯屋ゆうやに贈るをれいとせり……

とあるが、「初湯」というのは新年に初めて入る風呂のことで、それは別に朝には限らないから、この「元旦」は「元日」とみてよいのではないかしらん。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

ちなみに「鳥目ちようもく」というのは、☟栃木県立図書館のリファレンスで引かれている大鎌淳正『改訂増補古銭語事典』(1997年 国書刊行会)によれば、銅銭のことだそうだ。

まぁ場面からしても、穴あき銭のことだろうな、ってのはだいたい想像がつくけれどもww

田村美枝+石橋中和『鼇頭大日本國民專用實地有益大全』上卷(明治十九年 有益館)

方寸舎●歳且の古例槩畧」には、「元三ぐわんざん」という語についての解説の中に「元旦」が出てくる。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

正月一日を元三ぐわんざんと云こと此一日は日の元月の元年の元なり故に此日を元三と云ふ元の字にハジメ___よみあるを以てしるべきなり元旦未明みめいくみたる水を井華水せいくわせゐ俗に若水わかみずと云ふ之をめば年中邪氣じやきうけずと云ふ(引用者註:「井華水」のよみは《せいくわすゐ》ではないかともおもうが原文ママ)

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十三號(明治二十六年 東陽堂)

これも、「元日の朝」未明とよむか、はたまた「元日」の夜明けとよむか、どちらでも大して問題はなさそうだ。ウルサいことをいえば、「朝の未明」というのは重複表現、あるいは「未明だったらまだ朝じゃないでしょ」ということになるかもしれないけれども。

さて、今度は第六十四號の「元旦」用例チェックをしよう。

靜岡 鈴のや●靜岡市の歳末年始」の後半、「遊廓二丁町の歳末と年始の景况」をみると、

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

元旦 いづれの妓樓ぎろうも客を迎へず遊女一同酒宴しゆえんひらおもひ思ひの快樂くわいらくつく宴席えんせきにはかならずはまぐり吸物すひものを出だす

とある。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

なお駿府二丁町遊廓は、詳細な硏󠄀究をなさった☟静岡大学人文社会科学部言語文化学科の小二田誠二によれば「日本最古の公認遊郭」とされている、歴史あるところなのだそうだ。

遊女の皆さま、年明けはお仕事はお休みで思いっきり呑んで騒いで翌2日から「初見世」、ということだから、これは間違いなく「元旦=元日」の意味とみなせる。

次の無記名記事「●熊本の新年」は

熊本城下にては元旦に祝ひの雜煑を食するとき膳部に添ふるものは……

というお話なので、やはり「元日」「元日の朝どちらにも解釈できる。朝しか召し上がらなかったのかどうかはわからないけれども……。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

これの丁裏下段からはじまる無記名記事「●小學校元旦勅語奉讀并唱歌圖解」。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

新年一日の朝九時までに小學校は生徒を招集せうしゆうし……

と始まるから、これも「元旦=新年一日」ともとれるし、「元旦=新年一日の朝」にもとれてしまう。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

次の成澤慶昌「●羽前國田川郡の歳暮年始」は陰暦の大晦日に始まる羽黒山神社の神事について、こう説明がある。

……而して當夜は諸方よりの參詣人(男のみ)羽黑山はぐろさん群集ぐんじゆしてよく元旦ぐわんたん未明みめいに歸宅する者多し……

ということは、☝方寸舎●歳且の古例槩畧」の「井華水」と全く同じ。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

こうして、各地の昔の年越し風景紹介に使われている「元旦」という語をみていくと、意外なほど「朝でも朝でなくてもどっちでもいーじゃない」という用例が多い気がする。

そもそも、ことばひとつひとつの意味なんて、それまでに何気なく見聞きした場面から当て推量した「だいたいこんな感じかな〜」というような、ふわっとした概念しか持たないのが普通だろうとおもう。だから、似たような字面の語に「違い」があるのかどうかわからなくなっていってしまうのも、ある程度仕方のないことなのかもしれない。

「元日」の同義語「元三」と「三朝」

ところで、☝方寸舎歳旦古例概略記事に出てきた「元三」という語、前々回の記事「「元旦の午後」は間違った日本語なのか? (承前)」の終いのところで「古い節用集になると、「元旦」はあんまり出てこなくなるっぽいよ」という一例として掲げた『增補正誤假名遣』にも載っていたけれども、「元日」の同義語としてはかな〜り歴史があるらしい。

図版研架蔵の節用集のうちでは最も古くに編まれた、慶長二年(1597年)版とされる『節用集易林本にも、「」部「時候」のところに「元三クワンザン」が出てくる(「月輪クワチリン」「軍監クンケン」など、頭韻が濁りそうなほかの語にも「ク」に濁点がないようにみえるのだが、当時清音だったのか、それとも単に版が欠けただけなのかはよくわからない……なお、別の丁には「グ」ではじまっている語もある)。当時は「元日」も《クワンニチ(グワンニチ?)》といっていたようだ。

もちろん、これはオリジナルではなくて、大正十五年(1926年)に「日本古典全集」第一回本として出された、宮内省圖書寮架蔵本の影印版。なお東京帝國大學にあった「易林本」は、前回もちらと触れた関東大震災による火災により、収蔵されていた図書館と運命を共にしたそうだ。

ちょうど江戸時代に切り替わる慶長年間以前につくられた節用集を、特に「古節用集」と呼ぶらしい。この「易林本」のほか「天正本」「饅頭屋本」の3つの版があり、「易林本」が最も収載語数が多く、その後数多く出された節用集の基となった通俗辞書のはじまり、というような解説が序文にある。

日本古典全集」は正宗白鳥の弟にあたる歌人で、晩年にはノートルダム聖心女子大学で教鞭を執っておられた古典籍研究者の正宗敦夫

が、與謝野寬+與謝野晶子夫妻とともに刊行なさったものだそうで、この影印版は彼が宮内省に頼み込んで特別に撮影許可を得て全丁を写真製版したものとのことだ。なおこの巻には、奥附の発行日は全く同じながら正宗のみが編者となっている版もあって、そのあたりのご事情はよくわからない。前ページの隅に捺されている昭和四年(1929年)附の日にちが、実は本当の刊行日なのかもしれないが……。

ま、それはともかく、この古節用集にもみられるように、古くは「元旦」ではなく「元三」が、「元日」の意味でよくつかわれる語だったようにおもわれるのだ。

ところで、「元旦」ではないけれどもちょっと気になる一節が、醉霞居士●朝賀の起原」にあるのが目に留まった。

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

師古 漢書 アシタ月之朝日之朝故謂 《二》之三朝 《一》元三 亦仝義 ナリ又謂《二》之 四始 正義 史記 云歳 始月 始日 始時 始也(引用者註:《》内は返り点)

風俗畫報編輯『風俗畫報』第六十四號(明治二十七年 東陽堂)

班固が編んだものに顔師古が註をつけた『漢書』は100巻にも及ぶ大冊で、早稲田大学図書館ご蔵書の順治十三年(1656年)汲古閣版でも20冊もあるので、該当箇所を見つけるのに少々骨が折れるのだが、八十一卷「匡張孔馬傳

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_01735/ri08_01735_0033/ri08_01735_0033_p0029.jpg

の中の、元壽元年正月元日に日食が起こり、それから10日あまりりして傅太后が崩御してしまった、というくだりに「三朝

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_01735/ri08_01735_0033/ri08_01735_0033_p0043.jpg

會元壽元年正月朔日有蝕之後十餘日傅太后崩……又曰六沴之作歲之朝曰三朝其應至重乃正月辛丑朔日有蝕之變見三朝之會

が出てきて、この「歲之朝曰三朝」の後の註

師古曰歳之朝月之朝日之朝故曰三朝

がここに引かれているのがわかった。細かいところがビミョ〜に違うので、何かほかの文献に引用されたものの孫引きなのだろう。

で、この註について紹介した記事、島本昌一校「歳時故實」(寛文四年(1664年)版の翻刻)が法政大学国文学会紀要『日本文學誌要』3号(1959年)に載っているのを見つけた。

これの原本がないかな、とおもったら、これも早稲田大学図書館でお持ちだった。迪齋久佐道允歳時故實

の巻頭「元日」一丁裏の「齒固めといへる事は……」の続きに「又元日を三朝ともいふなり」とあって、その次の段落をみると

……五-雜-俎 正-月一-日謂 《二》之三-朝 師-古 漢-書 _ _ _ 《二》之 三-朝 《一》朝 ヲ/シ《レ》且 (引用者註:《》内は返り点 添え仮名のうち「/」が挟んであるもの(「ナヲ〜ノゴトシ」のところ)は、行の右・左にそれぞれ振られている)

……ちょ、ちょっと待った! さっきは見落としていたけれど、おもいもよらぬところで「字の語義についての解釈が現われた。書いてあることを整理してみる。

  • 五雜俎では「正月一日=三朝」といっている

  • 漢書の師古注では「三朝=歳のあした+月のあした+日のあした」といっている

  • 師古がいう「あした」の意味するところは「=「」」

ってことは、逆にいえばこの「」字って、「はじまりという意味になるんじゃない? ……という疑問が、俄然わいてきた。

どひゃ〜、またまた1万字超えてしまったww 次回につづく。

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