図版研

公然のヒミツ結社。東京・阿佐ヶ谷に日本一片づいていない私設図書館「レトロ図版博物館」開設。 noteでは、日本語の文字・言葉・モノの名前などをメインに綴る(つもり)。果たして続くかわからないけれど。 記事中のお名前はどなたも敬称略。

図版研

公然のヒミツ結社。東京・阿佐ヶ谷に日本一片づいていない私設図書館「レトロ図版博物館」開設。 noteでは、日本語の文字・言葉・モノの名前などをメインに綴る(つもり)。果たして続くかわからないけれど。 記事中のお名前はどなたも敬称略。

最近の記事

日本語の図案文字はどこから来たのか 第六回

ちょっと小休止、のつもりでほかのことに取りかかったらそちらにうっかりハマってしまい、気がつけばほぼまる一年経ってしまっていた。 例によって例の如く下書きもメモも何も作っていないが、さいわいに次回の記事に使おうと思って去年の今時分撮ってあった資料写真があるので、それを眺めながら思い出し思い出ししつつ、続きを書いてみることにする。 十時惟臣共著の略画お手本集 前回ご紹介した図案集『図案と文字』に先立つ昭和十年(1935年)、十時惟臣は同じ版元祐文堂から矢部正一という人物との

    • 品川県はどこにあったか

      私設図書館「図版研レトロ図版博物館」で昨夏たまたま収蔵した『杉並町誌附町名鑑』を『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』というタイトルで覆刻する企画に携わるまで、地域史について調べてみようとしたことはまったくなかった。 実のところ、『新修杉並区史』を区立図書館で手に取ってみたこともなければ、郷土史家として地元ではお馴染みの森泰樹の存在すらしらなかった、といえば、どれくらい関心を払ってこなかったかがおわかりいただけるだろう。 『杉並町誌附町名鑑』にざっと目を通してみたところ、思いの外面

      • 別冊は忘れたころにやってくる

        またもや、前回の投稿からだいぶ間が空いてしまった。 もはやどなたも憶えちゃおられないだろうが、ほぼ一年前『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』という本を出した告知記事の尻尾、「補足情報」☟ のところに と書いた。 暮れは五月雨式に寄せられるご注文に応じてお取り扱いのお店へ納品に伺ったりあれやこれやで忙しく、年が明けたらそういうのは終いにして「別冊」制作に立ち戻ろうと考え、実際一月中旬あたりまでは追加調査をしたり、一箇所だけだったが資料撮影に出向いたりした… …のだが、年明け早

        • 日本語の図案文字はどこから来たのか 第五回

          東京で『繪と文字の圖案化資料』と題した、現代人の目にはパチモン盛り合わせが八割みたいに映る図案+図案文字の本が堂々と売り出された二年後の昭和七年(1932年)、今度は大阪で十時柳江と同姓の図案家による図案文字集が刊行された。 十時惟臣の図案文字集 それが☟十時惟臣『創作圖案字體大展(創作図案字体大展)』だ。 判型は四六倍判の大型本。デザインの現場で頻繁に引っ張り出される実用書の常で、状態のよくないものが多い。これなどはまだ綺麗な方だ。 表紙や外函、本扉のデザインを目に

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第四回

          別の案件も併行して調べモノをしたり資料探索をしたり、はたまたカクテーシンコク書類どもとたたかったりしているうちに、そうでなくても短い二月がびゅーんと過ぎ去っていってしまった。 十時柳江の図案文字集に関してあらためて調べてみたところ、おもわぬ “発見” があったりして「もうちょい触れる」程度ではとてもおわりそうになくなってきてしまったのだが、せっかく乗りかかった舟だからこの際もうしばらくお付き合いいただきたい。 昭和初期の “ちょっと引っ掛かる” 図案文字集 さて、十時柳

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第四回

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第三回

          昨年八月の途中から書籍『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』制作の方へかかり切りになり、 note は( muuseo とかもそうだけれど)ほったらかしのまんまとうとう年を越すことになってしまったが、いくつかお取り扱い拠点を確保して当座のご注文分もすべてお納めし了えて一段落ついたところで、そろそろ「次」に取りかかりたい。 『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』別冊の方の記事も書き始めなきゃ、という話もあるが、まずは出だしで長ったらしい記事を書いたっきりいきなり停まっちゃっている図案文字の方を再

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第三回

          新刊書『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』お取り扱い店続報

          11月末に刊行した、大正時代末の高円寺・阿佐ヶ谷地域タウンガイド本と、昭和初期区政施行直前版の番地入り詳細地図を組み合わせて覆刻した『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』は、お蔭様でお取り扱い店が増え、さっそくご注文も続々いただいてありがたい限り… …なのだが、巻末附図の組み立て取り付けに1冊あたり1時間半くらいかかっているため、まことに心苦しいが納品が追いついていない状況。 ご注文数の一部なりとも既にお納めしたお取り扱い店は、東から西へ順番に次のとおり。販売価格・ご在庫状況・ご注

          新刊書『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』お取り扱い店続報

          『大正、阿佐ケ谷、高円寺。』上梓☆

          前回の投稿からかな〜り間が空いた。八月からこっち、☟この書籍の制作にかかり切りになっていたのだった。 2023年9月8日追記:本体の印刷製本を外注した会社からのご依頼で、去る1月26日にお受けしたインタヴュー記事の事前チェックご依頼が8月29日にあり、3回ほどのやり取りを経て昨日ようやく公開された由☟ 書誌情報 『大正、阿佐ケ谷、高円寺。』 編集:図版研 装幀+巻末附図折り込み設計:ねこの隠れ処 DTP+文字校正+巻末附図組み立て投げ込み:図版研レトロ図版博物館 印刷日

          『大正、阿佐ケ谷、高円寺。』上梓☆

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第二回

          矢島週一『圖案文字大觀』は、戦後になっても需要が衰えなかったらしく、引き続き刊行されていた。 ただしその版元は、戦前版を一貫して出しておられた彰文館書店ではない、いくつもの出版社名が挙がる。 図版研は、明治元年(1868年)〜昭和十六年(1941年)にだいたいの的を絞って図版資料を蒐めているので、基本的に戦後は守備範囲外なのだが、ものによっては比較のための参考資料として収蔵しているものもある。 『圖案文字大觀』についていえば、昭和二十八年(1953年)に『図案文字大辞典

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第二回

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第一回

          「Japanマレー語経由説」をめぐる探索話を中途半端なところでストップさせてしまって早2ヶ月あまり。いったい何をやっていたのか? 実は年明けから始めた note でのおアソビ調べモノと併行して、暮れに立ち上がった仕事としての出版企画の方の調べモノがこの5月にブレイクスルーをみて、そろそろ一応は纏められるところまできたかな? という段階にいたったので、そちらの方に気が散って note もほったらかしになっていたのだった。 その企画のテーマは、というと、大正時代の終いごろから

          日本語の図案文字はどこから来たのか 第一回

          私設図書館「図版研レトロ図版博物館」について

          中途で停まっている「Japan」マレー語経由説を追う記事は、オアソビとはいえ集中しないと書けないのだが、5月の連休明けあたりから急ぎの仕事とかいろいろと気の散るあれこれが押し寄せてきて、その後も引き続き資料を拾いあつめて眺めたりはしているものの、今のところちょっと再開できる感じがしない。連日うんざりするほど暑いし。 そうでなくても、史実を追っていくとどうしても特定のキーパーソンが現われてくることが往々にしてあるが、そうした登場人物たちが複雜にいり乱れ雑じって展開していくよう

          私設図書館「図版研レトロ図版博物館」について

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の6)

          「日本」を意味する英語「Japan」がマレー語経由の華語に由来する、という説を追っかけてみる此度の連載。 大英帝國海峡殖民地時代の辞書を引っ張ってみると、ラテン文字での音写にはだいぶブレがあって心許ないのだが、十七〜十九世紀当時現地で使われていたジャウィ文字とラテン文字の対比ができる英文・蘭文マレー語辞書をみてみたところ、「جڤون japūn」「جاڤون jāpūn」だったらしいことがわかってきた。 ☝前々回で取り上げたように、ヨーロッパのことばによるマレー語辞書は十

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の6)

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の5)

          ☝前回の記事でも書いたように、ジョン・クローファードの編まれた2冊のマレー語辞書では、「日本」を意味する英語の「Japan」という語は、それぞれマレー語「Jâpun」「Jâpon」の音写に由来する、ということになっている。 しかし、ではどうして2種類あるのか? というのが、クローファードは何も説明しておられないのでわからない。 「華語からマレー語に入った」という説がもっともらしいかどうかを評価するためにも、そもそも当時のマレー語ではどういう音だったのかがはっきりしないと、

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の5)

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の4)

          前回の投稿から、かな〜り間が空いた。 図版研はレトロ図版マニアのヒミツ結社だから、図版がないことには何ごともはじまらない。今回の連載開始当初の予想よりもまたまた記事が長くなってきてしまい、『The handy shilling atlas of the world』と『平凡社カラー世界史百科』の2冊だけの使いまわしではそろそろツラくなってきた。 この連載を書いているヤツにしても、調べモノは好きだけれど文章を書くのはどちらかというとおっくうな方なので、「これは♥」とおもう図

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の4)

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の3)

          「日本」のことをどうして英語で「ジャパン」というのか? という古くからの未決着問題に関連して、『Oxford English Dictionary』の「Japan」項に語源として引用されている、ヴィクトリア朝時代の英領インド帝國俗語事典『Hobson-Jobson』の「Japan」項に出てくる「マレー語経由説」を追っかけてみるこの連載、今回は編者のユールがその根拠とした Crawfurd 説とは? というのがテーマ。 実は引用文献一覧が「LIST OF FULLER TIT

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の3)

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の2)

          英語「Japan」の元となった語がマレー語に由来する、という「ユール説」が、ヴィクトリア朝時代に編まれた英領インド帝國俗語事典『Hobson-Jobson』の「Japan」項に載っているのを、☟前回の記事で紹介した。 この事典は『Oxford English Dictionary』にアジア関係の語を載せる際、ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレー James Augustus Henry Murray が大いに参考になさったらしい。 今回はその続き、ヨーロッパの文献に

          「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた(承前の2)