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読書 | ショーペンハウアー

 もう2年くらい前のことである。とある方から、noteのコメント欄で、スピノザとショーペンハウアーを読むように勧められた。

 スピノザに関しては、不十分ながらも、著作を読み、記事にした(↓)ことがある。



 今回はもう一つの「宿題」であるショーペンハウアーに取り組みたい。


ショーペンハウアーとは?

 今はどうか知らないが、代表的な哲学者を表す言葉としてよく「デカンショ」と言われていた。すなわち、デカルト、カント、ショーペンハウアーの3人である。
 デカルトなら、「方法序説」の「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト=エルゴ=スム、cogito ergo sum)が思い浮かぶ。カントなら、「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」という批判哲学のことが思い浮かぶ。

 しかし、ショーペンハウアーというと、代表的な著作の名前をすらすら言える人は少ないのではないだろうか?
 ショーペンハウアーの代表的著作は「意志と表象としての世界」だが、山川出版社の「倫理用語集」(改訂版、2009)では次のように説明されている。


ショーペンハウアー(Authur Schopenhauer) 1788--1860

ドイツの哲学者。
理性主義の哲学に反対して、生存への意志を中心にする「生の哲学」を説いた。
ダンツィヒで、裕福な銀行家の父と、小説家の母のもとに生まれた。

大学で自然科学・歴史・哲学を学び、またインド哲学を研究した。
主著の『意志と表象としての世界』を書き、さまざまな現象の根底にあるものは盲目的な生存への意志であり、それは常に満たされない欲望を追いかけるから、人生は苦悩であるという厭世主義を説いた。

ベルリン大学の私講師(無給で講義をする講師)となったが、当時の哲学の主流であったヘーゲルの人気に圧倒され、大学を辞任した。

その後は、民間の哲学者として過ごしたが、晩年には、その独創的な「生の哲学」が注目され、若き日のニーチェ・ワグナーらに影響を与えた。

前掲書pp.238--239

 ヘーゲルやニーチェという哲学者の影に隠れてしまっているから、ションペンハウアーの哲学のイメージが湧きにくいのかもしれない。


梅田孝太(著)「ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く」(講談社現代新書、2022)


 本当は、ショーペンハウアーのことを記事にするなら、「意志と表象としての世界」を読みたいところだが、ぶ厚いので読みきれない。
 そこで、昨年刊行された新書をもとに、ショーペンハウアーの思想のアウトラインをまとめてみたい(抜粋に過ぎないかもしれない)。


 ショーペンハウアーは晩年、自分と信奉者たちを指して「仏教徒」と呼び、知人には仏陀とプラトンとカントことが三大哲学者だと語っている

梅田、前掲書、p26

 以前(と言ってもだいぶ前だが)、ショーペンハウアーの「幸福について」(新潮文庫)を読んだことがある。

 ヨーロッパ系の哲学者にしては、仏陀や古代インドのウパニシャッドの話題が多かったことを覚えている。
 
 仏陀あるいは仏教は、一般的には「宗教」と呼ばれているが、仏教には、キリスト教における聖書や、イスラム教におけるコーランのような、これは必ず読まなければキリスト教徒・イスラム教徒とは言えないというような聖典はない。
 ショーペンハウアーが仏陀を「哲学者」と呼ぶのも、「なるほど」と思える。


意志と表象としての世界

 孫引きになるが、ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」の第1巻の冒頭に、次のように書かれている。

(⚠️読み飛ばしてもかまいません)

「世界はわたしの表象である」---これは、生きて、認識を営むあらゆる存在に関して当てはまるひとつの真理である。ところがこの真理を、反省的に抽象的に真理として意識することができるのはもっぱら人間だけである。

 人間がこれを本当に意識するとして、そのときに人間には、哲学的思慮が芽生え始めているのである。その際に人間にとって明らかになり、確実になってくるのは、人間は太陽も知らないし大地も知らないのだということ、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼だけ、大地を感じる手だけなのだということ、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のものとの関係においてのみ、人間自身がそれである表象するものとの関係においてのみ存在するのだということである。

梅田、前掲書、p43

 私なりに解釈すると、私たちは、私たちの認識を超えて、客観的な世界が存在するかのように思っている。

「表象としての世界」とはなにか?

 簡単に言えば、私たちが死んでしまった後も、「世界そのもの」が残ると思いがちである。
 しかし、私たちが見る「太陽」は、「太陽そのもの」ではなく、視覚などが「知覚」する限りのものにすぎない。
 人間が見て感じる太陽と、鳥や虫が見て感じる太陽は、大きく異なるだろう。
 あくまで私たちが知る太陽は、「私たち」というフィルターを通して映し出されたものである。

 これは太陽だけに限ったことではなく、私たちを取り巻くあらゆる「世界」は、「表象」(イメージ)にすぎない。

「意志としての世界」とはなにか?

 基本的に世界は、「表象としての世界」だが、「わたしの身体」は唯一特権的な表象となっている。そこには「生きようとする意志」がある。

 身体以外の表象は、単なる私の表象に過ぎないが、自分自身の身体は「意志」と連動している。
 食欲にせよ、睡眠欲にせよ、性欲にせよ、単なる表象ではなく、生きようとする意志の働きに基づくものだ。


まとめ

 表面をなぞったに過ぎないが、この記事はここで終わる。
 実際に「意志と表象としての世界」を読んでいないので、安易なことは言えないが、カントの「物自体」の考えをショーペンハウアーなりに再定義して、考察したようである。

 機会と気力が充実しているときに、カントの哲学を深めるために、ショーペンハウアーを読んでみたいと思う。


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