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読書 | 「罪と罰」/ 来世のイメージ

「来世」「永遠」というとどのようなイメージを持つだろうか?

 ドストエフスキー「罪と罰」第四部 1 に次のようなラスコーリニコフとスヴィドリガイロフとの会話がある。


「<< (中略)人間が完全に死ぬと、そのまますぐに他の世界へ移る >>わたしはこのことをもうまえまえから考えていましてな。もし来世の生活を信じていれば、この考察も信じられるわけです」

「ぼくは来世の生活なんて信じませんね」とラスコーリニコフは言った。

スヴィドリガイロフは座ったままじっと考えてこんでいた。

「来世には蜘蛛かそんなものしかいないとしたら、どうだろう」と彼はとつぜん言った。
<< この男は気ちがいだ >>とラスコーリニコフは思った。

「われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか?そこでいきなり、そうしたものの代わりに、ちっぽけな1つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。わたしはね、どきどきそんなようなものが目先にちらつくんですよ」

(出典)ドストエフスキー(工藤精一郎[訳])「罪と罰(下)」、新潮文庫


 「罪と罰」を読むとき、どうしてもラスコーリニコフに感情移入してしまうので、スヴィドリガイロフは「敵」だと思ってしまう。しかし、改めて読むと、スヴィドリガイロフの言うことはなかなか面白い。

 永遠とは、「田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり」。発想が面白いですよね。

「無限」とか「永遠」という言葉を聞くと、果てしなく広くて大きなものを想像してしまいます。でも、「田舎の風呂場の蜘蛛の巣」が「永遠」なのかもしれない。
 私たちは未知のものをとても大きなものだと考える傾向がある。昔流行った、丹波哲郎の「大霊界」みたいに。

 実際はどうなんでしょうね。永遠も来世も、砂粒ひとつくらいの大きさしかないかもしれない。


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