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エッセイ|語学平和論



(1) 方言との出会い

 昔から言葉というものに関心をもっている。父が転勤が多かったから、同じ日本でもさまざまな方言があることを身をもって経験したからだろう。

 何年か同じところに住むと、その土地の方言のネイティブ・スピーカーになった。長野に住んでいるときは、信州ネイティブ、岩手に住んでいたときは、イーハトーブ・ネイティブになった。

 しかし、別なところに移り住むと、徐々にネイティブのようには話せなくなる。しかし、話せなくなっても、いまだにテレビなんかで、かつてネイティブだった方言を聞くと、意外と理解できたりするものだ。

 一度覚えた方言というものは、表面的には、時が経てば話すことはできなくなるが、記憶の奥底では生きていて、深層心理にとどまりつづけるようだ。


(2) 外国語との出会い

 中学生になってから、転勤はなくなった。だから、新たな方言に出会う機会は、それ以降、大学に入学するまではなかった。

 しかし、方言に出会わなくなった代わりに、中学生になってから、他の人と同じように英語を学ぶようになった。英語というものは、一般的に流布している意味での方言ではないが、私は英語をアメリカやイギリスの方言と出会ったような感覚で学び始めた。

 確か私が学んだ英語の教科書のLeeson1 Part1 は、こんな感じだった。

This is Japan. 
This is Tokyo. 
This is America. 
This is New York. 

某教科書
Lesson1 Part1

  This is a pen. とほぼ同じで、無味乾燥な英文だが、「です」が主語のあとに来る「方言」って面白いな、と思った。中学生当時、こういう方言の文法がとても面白くて、3年分の教科書を文字通り、丸暗記していた。それは高校生時代も変わらず、大学入試の前には、英語の「リーダー」の教科書はすべて暗唱していた。

 大学に入ってからは、ドイツ語を学んだ。英語と似ている語彙や文法が多いから、初めて英語を学んだときほどの高揚感はなかったが、英語にはないドイツ語の響きの良さは心地よかった。特に、女性の話すドイツ語はとても音楽的で、心地よかった。
 こういうドイツ語が話される地域から偉大な作曲家が数多く生まれたのは納得できるところである。もちろん、言語学的には美しい言語も汚い言語もないのだが。


(3) 興味があるのは歴史・文化ではなく言葉そのもの

 英語でもドイツ語でもいいが、英語を真に身につけたいならば、その言語が話されている地域へ行って学びたいと思う人もいるだろう。しかし、私自身は当該原語が実際に話されている国に住んでみたいとは思わない。

 それは同じ日本国内でさえ、転々とすることに辟易した経験があるからだろう。方言を聞いて覚えるのはいいが、遊びに行くのと住むのとでは雲泥の差がある。言葉自体を覚えることは楽しいが、その地の流儀に生活パターンを合わせることはストレスになる。

 また、どんなにある1つの地域に長く住んだからと言って、その地域の歴史・文化に詳しくなるとは限らない。日本に一度も来ることなく、日本に精通することや、その逆も可能だという信念に似たものが私の中にはある。

 どっぷりと文化・風習に染まることなく、言葉そのものを楽しみたいときには、現地に住む必要性は低い。わざわざ現地に行かなくてもできることは多い。生活や命を賭ける必要もない。また、何千とある地球上の言語を学ぶために、世界中の至る所に住もうとしてもそもそも無理なことである。


(4) 多言語学習について

 現地に住みたいとか、仕事で、ある国の言語を学ぶ必要に迫られて言葉を覚えなくてはならないような状況に自らを追い込むことはしたくない。私が興味があるのは、その言語の文法や、日本語には対応する言葉がないような単語や言い回しに出会うことにある。

 まず、あるXという外国語を学ぶとき準備するのは、辞書、文法解説書、音源があれば音源、もうひとつがその言語で書かれた文学作品。

 このとき選ぶ文学作品とは、原書がその国の言語で書かれたものでないほうがよい。なるべく英訳が刊行されているものがいい。この条件を満たす代表的なものは、聖書。だいたいどの言語にも翻訳者されている。
 他の文学だとシェイクスピアもいいが、戯曲はちょっとという場合には、デカルトの「方法序説」でも、エンデの「モモ」でも、トルストイ「戦争と平和」でも、英訳と日本語訳と学びたい言語で訳されたもの3冊並べて対照すれば、学習は開始できる。

 語学関係のエッセイや研究書を読むと、多言語学習に成功しているのは、私の知る限り、聖職者と哲学者である。
 成功と言っても、流暢に話せるという意味ではなく、きちんと原書を理解できるという高度な言語運用力があるという意味である。


(5) 3ヶ月坊主でも3日坊主でもよい

 日本語以外に実利的に習得したほうがいいのは、英語や中国語などだろう。それ以外の言語は、経済的な意味では、学ぶ理由がない場合が多いが、楽しければそれでよい。

 無駄だと思う人には無駄だろうが、英語以外の言語を学ぶと、いかに英語というものが習得しやすい言語であるかということに気がつくはずだ。

 いくら英語が苦手だという人でも、This is a pen.が「これはペンです」を意味し、「行く」が英語で「go」だということは知っている。第二外国語としてドイツ語なりフランス語を学んだって、「これはペンです」「行く」をドイツ語やフランス語で言えない人は多いだろう。でもそれでもいい。英語以外の言語を学ぶと、少なくとも、ドイツやフランスのことが気になるようになるものだ。

 政治的な理由や文化的な好き嫌いだけで、ある国を好きになったり、嫌悪したりすることがある。しかし、たとえ3日あるいは3ヶ月だったとしても、その国の言語を学んだ経験があると、心の深いところで、その国に愛着を感じられるものだ。


(6) 語学平和論

 時々思うことだが、戦争というものは、互いの国の言語を互いに学んだことがないことに起因することが多いように思われる。

 仮にA国とB国があって、それぞれの国の言語が a語とb語だとする。
 a語とb語は同じ語族に属し、お互いに似た言語であるが、a語が例えば国連公用語のような「メジャーな言語」で、b語が現地でしか話されないような「マイナーな言語」だと仮定しよう。
 そうするとb語を話すB国民は、当然a語を学ぶことになるが、他方A国民はb語を学ばないかもしれない。そこに不均衡が生じるのだ。

 もし両国民が互いに互いの言語を学ぶならば、心の深いところで憎み合うことはなくなるだろう。
 1つの外国語をマスターすることは容易ではなく、実際にマスターすることができなかったとしても、互いの言語を学び、互いの言語で書かれた文学が1つでもあったならば、戦争に突入する一歩前のところで踏みとどまることができるのではないだろうか?

 どういう軍事同盟を結ぶとか、武器を提供するとかしないとかということも大切なのかもしれないが、語学や文学の力はそれより遥かに大きいことだろう。
 外国語を学ぶと、その外国のことは憎むことが出来なくなる。それが時間はかかるかもしれないが、平和への第一歩のような気がしている。


(7) 今までにかじったことのある言語

 最後に、私が心の深いところで、絶対に憎むことが出来ないであろう国の言語を挙げておきたい。学んだことのない言語の国が必ずしも嫌いというわけではないのだが。。。

 最後に、かじったことのある言語を手書きで書いてみた。

あとは英語。


私の得意な順番

第1言語 日本語😀
第2言語 英語
第3言語 ドイツ語
第4言語 ロシア語


難しいなと思った順番

第1位 アラビア語
第2位 コサ語
第3位 スワヒリ語


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