【読書エッセイ】ゆっくり歩けるようになった一冊
【今回の一冊】『夜のピクニック』
著:恩田陸
発売:新潮文庫/定価:825円(本体750円)
概要:全校生徒が80キロを夜通し歩き通すイベント「歩行祭」を舞台に、高校生の青春を描いた作品。主人公・甲田貴子は、在学中、誰にも言えずにいた「ある秘密」の清算を誓い、この伝統行事にのぞむのだが――。
追われ、もがいていた夜に
ずっと走り続けていた。
何かに追われるように時は進み、立ち止まることも振り返ることもせず、そのことに何の疑問も持たずに生きてきた。
更年期を迎えるあたりから、身体に変化がおとずれた。私はその変化に驚き、戸惑った。突然、前触れもなくやってきたその変化は、とにかく私を疲れさせた。そのくせ夜はなかなか寝付くことができず、夜な夜な自分自身の人生について振り返ることが多くなった。
振り返っても、その道程は慌ただしく景色が流れるだけだった。何一つ成し遂げていないような感覚におそわれて、なんだか泣きたくなった。
走り続け、前を見ることしかしてこなかった私は、初めて立ち止まり、そして座り込んでしまった。まるで深い水の底に沈んでいるように、息ができず、もがいてももがいても、ただ苦しいだけだった。
そんな頃、出合った一冊がこの『夜のピクニック』だ。
学校行事として、高校生が夜通し80キロの距離を歩くという物語。その中では、特別なハプニングが起こることも、劇的な場面の変化が起こることもない。だが、変わっていく。登場人物、景色、朝から夜、夜から朝。ゆっくりとゆったりと、それらは変わっていく。
あっという間に夢中になり、読み進めた。
そこには温度があり、色があり、匂いがあり、光があった。五感を刺激させられた。高校生という思春期特有の心の叫び、遠慮、言葉にできない気持ち。そのうちに、自分自身も朝から夜通し歩いている感覚すら覚えた。「夜」というちょっとしたワクワクや、アスファルトが冷えていくあの独特の匂いや、全てを照らさない月の明かり、歩ききった後の、あの達成感までもが自分の中で蘇よみがえっていった。
本を読み切った夜、私はたくさんのことを思い出した。
大切にしてきたヒト、モノ、コトバ。笑顔、涙、悩み。達成感、絶望、希望。次から次へと私の脳裏に浮かんできた。
「私、ちゃんと生きてきたじゃないか」
そう思ったら泣けてきた。ついには大きな声をあげ、子供のように泣いた。
自分の心の奥底に、ぼんやりと存在し続けた儚さや虚しさのような灰色の塊が、ほろほろと解きほぐされ、穏やかにあるべき場所に落ち着いていった。
走り続けてきたからこそ感じることができた「歩く」という行為。
立ち止まり、振り返ったからこそ見えた自分自身。
歩こう。
身体のこと、心のこと。
自分ともっと深く付き合っていこう。
私はそう、決めた。
「歩こう」と決めてから
それからは、時間に余裕をもつ暮らしを目指し、まずは仕事の量を減らし、心も身体も解放させた。
走るように済ませていた愛犬との散歩は、今ではちょっとした「ピクニック」だ。どちらの道を進むのかを愛犬に尋ね「こっち!」と言われた方向に向かって歩く。ぶらぶらと歩く。
春がくる。桜が咲き、新緑が山をつくる。やがて夏がくる。ギラつく太陽の下、川で水遊びをする愛犬を愛でながら、秋の訪れを思う。木葉が色づき、木の実が落ちる。雪が降り、積もる冬。そして溶けた雪が川に集まり、また桜が咲く。住宅街を歩き、古い家屋を見ながらその家族の歴史に思いを馳せる。すれ違う人たちの歴史を想像する。ランドセルの列を見て子供達の未来を夢見る。やがて名前も知らない友人ができ、朝の挨拶と笑顔をいただく。
歩くことで増えた景色の変化、友人。
どれも私の力。私の宝。
振り返ることも、立ち止まることも大切なこと。それも私の歴史。
今までとは違う時間の進め方で生きることを、肯定するキッカケをもらった一冊。
走り続けた私が、暗闇の中で見つけたこの一冊。
『夜のピクニック』は、今も私の暮らしを支え続けている。
【執筆者プロフィール】
山口花(やまぐち・はな)◆1968年、新潟県生まれ。大学卒業後、地元の広告代理店に就職し、結婚を機に退職。現在は山形県で家族と犬と猫と暮らしながら、執筆活動を行なう。『犬から聞いた素敵な話~涙あふれる14の物語』(小学館文庫)など著書多数。
初出:『PHPくらしラク~る♪』2020年12月号
※本文表記はすべて掲載時のものです