“正解”を求めない 思考法
普段から、子供達と接していると
彼らがいかに正解を求めようとしているのかを感じる。
もちろん問いに対して、解を教えるのは簡単である。
しかし、答えの無いような問いに対する姿勢が弱い。
それは大人になってたいわゆる社会人が体験として実感している。
NPO団体を通じて、学生さんたちを社会問題や地域問題に立ち会わせ
意見を出してディスカッションする様なワークショップやコミュニケーションのワークショップを開いている。
正解がない、一つとは限らない真実を探る作業は自ずと必要になってくる。。
この情報化社会においては必要不可欠だ。
真実が多面的である様に僕たちは常に自分がどこに立っているかを意識せざるを得ない。なぜなら、生きてきた環境に応じて理解できる視点が全く異なるからだ。
それは宿題や課題においても同じことが言える。
ただひたすらにドリル形式に処理するのも悪くはない。
けれども、それだけでは“答えの無い問い”に対して対抗し得ない。
小学生と接する現場で実感するのは“正しい答え”という単体の〔カギ🗝〕だけを求めようとしていること。
無論、導いているのは大人たちの環境である。
自分の意見や感想。頭の中で思いつくことをまず話すこと。なんでこの回答が思いついたのか。どうしてそう考えたのか。
主体性の裏側にある、権威の鎖みたいなものに気づく作業は僕は無駄じゃないと考える。
世間がこう言ってるから、親がこう言ってるから、先生が、、、、
それでは、優秀な思考停止人間が生まれる訳だ。
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