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わたしの履歴書 / テクニカルチーム編

この記事では採用応募者に面接官である我々マネージャー陣の情報を開示するため、わたしの履歴書と題して、自身の経歴について書いていきます。
なぜ開示しようと考えたのかはこちらの記事からご覧ください。

また、他チームマネージャーの履歴書は以下からご覧いただけます。

ピラミッドフィルム クアドラ(以下:クアドラ)でテクニカルチームのマネージャーをしている栗原です。
2001年に社会人になってから5度の転職を経て、2015年クアドラに入社、働く場所も東京(約11年間)→上海(約7年間)→東京(約4年間)という変遷を経て今に至ります。

エンジニアとしては主にフロントエンドをメインのフィールドとして活動しており、開発環境はこの15年間でFlash(ActionScript)からHTML5(JavaScript)に変わりました。最近ではサーバーサイドやツールの開発にnode.jsを使ったり、CMS構築は主にWordpressを使っています。プロジェクトにはテクニカルディレクターとして関わることが多いのですが、自分でコードを書くことも多く、プログラムするのは好きな方です。

いろいろな会社にいたのでこの業界の良いところ悪いところをある程度経験してきています。少し特殊な経歴ではあるので、どこまで参考になるかわからないですが、クアドラに限らず広告プロモーション系のWebエンジニアになることを考えている方の参考になれば幸いです。


わたしの履歴書 / 栗原泰隆(くりはらやすたか)

【出身地】

出身は栃木県鹿沼市。東京から北に120km、東北道の鹿沼インターチェンジがあり、徳川家康のお墓があることで有名な日光東照宮まで30kmという場所で生まれました。特産はいちご、こんにゃく、かんぴょう(最近は和牛にも力を入れているらしい)。宇都宮市が近いので高校は宇都宮の県立高校に通い、大学進学で東京で一人暮らしするまでの18年間を地元で過ごしました。

【所属チーム】

テクニカルチームに所属しています。
※現在、テクニカルチームには12名(男8名、女4名)が在籍しています。

【ポジション】

マネージャー / テクニカルディレクター

【学歴】

2001年3月 武蔵大学人文学部社会学科卒
大学の仲間うちではじめたミニコミ誌の制作のためMac G4を購入。その後は仕事もプライベートもMacユーザーとなります。
就職活動のために自宅でプロバイダーと契約したことがきっかけでネットに興味を持ち、Macromedia Dreamwaverを購入。付属のFlashは使ってなかったのですが、その後自分がFlashエンジニアになるとは、その当時は夢にも思っていませんでした。

【クアドラ入社日】

2015年10月

【職歴】

2001年10月 電子精密機器メーカー子会社入社(当時23歳)
IT系の新卒派遣会社から紹介され、東府中にあったメーカー子会社に就職、半年後に親会社常駐勤務と同時に入社しました。
この会社では業務用複合機のプリンタードライバーのローカライズ作業をフィリピンにある子会社で行っており、私が在籍していた部署では各国販社からの要望の取りまとめから、仕様の策定、製品のマスターCDの作成、発送までと、開発過程における幅広い業務を行っていました。仕事は楽しかったのですが、もともと目指していたWebのエンジニアになることを諦めきれず4年ほど働いたのち離職しました。
社会人になるまでは海外にまったく縁がない生活を送っていた私でしたが、初海外がこの会社でのフィリピン出張でした。若い頃に外国人と働くという経験をしたことは有意義で、本当に貴重な経験をさせていただきました。私にとってはその後の人生の出発点とも言える経験だったと思います。

2005年8月 東京都小金井市のWeb制作会社入社  開発部所属(当時27歳)
Webエンジニアになるために友人の紹介で当時中央線の武蔵小金井駅から程遠い(徒歩20分)マンションの1室で業務を行っていたWeb制作会社に入社しました。
その当時は、RIA(Rich Internet Application)という言葉が流行ったころで、Adobe Flash(その当時はMacromedia Flash)が仕事で使えるということが、この会社に入社した理由でした。
この会社では、Webフロントエンド開発、バックエンド開発を経験させていただきましたが、プログラマーとしては初学者レベルだったので、入社して最初の1年間は非常に苦労しました。
ある入社当時のプロジェクトでは、2ヶ月間ほぼ毎日徹夜、その当時住んでいた歩いて5分のアパートの部屋には風呂に入るために帰るだけのような生活でした。今となれば、そんな時代があってこそ今の自分があるのだと思います。

2008年5月 半蔵門Web制作会社入社 開発部配属(当時30歳)
その後、同じWeb制作会社でも50人規模の会社に入社しました。
この頃から今につながるような広告代理店経由の大企業のプロモーションサイトのフロントエンド開発がメインの領域になりました。
R25の人気コンテンツ「スマートモテリーマン講座」とインテルがコラボしたPRサイトや、海外の車メーカーのスペシャルコンテンツなどをFlashで作りました。
職場もマンションの一室から都心のオフィスビルになり、生活は落ち着いたのですが、若さゆえのまた新しいチャレンジを求めて次の職場に転職しました。

2009年5月 渋谷神泉にあるWeb制作会社入社 デザインエンジニアチーム所属(当時31歳)
レベルの高い会社を求めて入った会社は海外の広告祭でアワードを取るような業界でも有名な会社だったので、再び昼夜関係無しの生活に戻りました。
フルFlashサイト全盛の時代、2005年から業界に飛び込んで自分ではようやく実力も着いたと思っていたのですが、そんな自信はあっけなくつぶされ、毎日、置いていかれないよう必死だったことを思い出します。
この時代の一番の変化は、入社後数年経った後、Flashエンジニアからテクニカルディレクターに肩書が変わったことです。テクニカルディレクター
になって開発に付随する業務全般に携わるようになり、プロジェクト全体を俯瞰してみれるようになったことは大きな変化でした。

2012年4月 出向、中国駐在(当時34歳)
入社してからの3年間、泥のように働いていたのですが、心境の変化もあり、会社の海外進出に合わせて中国(上海)に行かせていただきました。
中国に渡ってすぐは、日本で受注された仕事が多かったのですが、後半はなんとか中国で受注した仕事にも携われるようになりました。
社外のデザイナーやエンジニアとチームを組んで仕事をするようになったのもこの頃でした。会社を超えて仕事するにはエンジニアとしての力量以外に、もっと人間力のようなものが必要になることを学んだと思います。
住むところが変わることによって考え方や人生観も変わった1年でした。

老房子(ラオファンズ)と呼ばれるアパート。上海に着いたその日から約2ヶ月間を過ごした。(最初からハードモード)

2013年5月 中国上海にある日系のWeb制作会社入社 制作部所属(当時35歳)
もう少し中国に根を生やそうと思い、上海にある日系のWeb制作会社に転職しました。上司は日本人でしたが、デザイナーやエンジニアのほとんどは中国人のスタッフでした。
主な取引先は日系会社の現地法人のため、提案や営業に関わる業務は主に日本人の仕事となります。それまでの会社では受注前の案件に関わることはほとんど無かったのですが、この会社に入ってはじめて提案や営業といった業務も経験しました。
提案書の作成経験や集客、マーケティングに関する知識は、現在の業務でも生かされていると思います。

2015年10月 株式会社ピラミッドフィルム クアドラ入社 中国現地法人(上海金頂広告有限公司) IT部所属(当時37歳)
いまの奥さんとの交際をきっかけに日本帰国も考えて、再び日本に本社があるクアドラに転職しました。
クアドラ入社後は日系の大手精密会社メーカーのWebサイトの制作におけるテクニカルディレクターとしての業務が中心でしたが、その後、2019年1月に帰国しました。

ピラミッドフィルム上海のオフィス。おしゃれな内観。

2019年1月 日本帰国、テクニカルチームに所属。(当時40歳)
現在は田町駅近くのクアドラ本社に勤務しています。
コロナの影響で2020年からはリモート勤務が多くなりましたが、今年に入り出社することが増えて来ました。関わった仕事はクアドラのホームページを御覧ください。

中国国際スマート産業博覧会(2019年、重慶)での展示の様子。右は重慶火鍋。

【やりがい】

広告プロモーション系のWebエンジニアの醍醐味は、大規模開発でないからこそプロダクト全体に関われることにあると思っています。Webサービスの場合であれば簡単なものでもサービスローンチまでに短くても1年や2年といった期間をかけ、多くの工程と人員に分かれて進めるようなことも多いと思います。一方、広告案件の場合、最小限の人数で実現性(フィジビリティ)の確認から最終の実装までほぼ同じ人が担当することが多く、心の底から自分で作ったという感覚が味わえるのがやりがいだと思います。
また、広告案件の場合、多くは代理店のクリエイティブディレクターやプランナーが作った企画書のみがある状態からスタートして、企画書をどう解釈してどう実現するかはデザイナーとテクニカルディレクターに委ねられます。技術的にフィジビリティの確認が取れていないような企画であっても、作りながらやる方法を探るなど、かなりスリリングなことを経験することも少なくありません。ただ、実現できるかできないかわからない企画にチャレンジして、それがものになったときの快感というのは、他では味わえないと思います。

【今後やりたいこと】

テクニカルディレクターとして常に新しいことにチャレンジしていきたいと思っています。いまはブロックチェーンや分散型ネットワークのような技術が社会をどう変えていくのかについて興味を持っています。
現代社会では、会社のような組織に属することが、その個人の信用の基盤のようになっていると思います。それも近い将来、ブロックチェーンのような技術の発展によって個人が個人の力だけで信用を持てる世の中に変わっていくかもしれないと思います。
またマーケティングの分野でもSNSにかわる新しい繋がり方としてトークングラフのような考え方が広まりそうで注目しています。

【資格・受賞】

■資格
・2006 Macromedia FLASH MX認定デベロッパー

■受賞
・2009 Spikes Asiai Digital C03. Interactive Tools & Applications, including mobile advertising Silver (Flash Engineer)SONY BLU-RAY, RECOMMENDED INFO SAVER 
・2011 東京インタラクティブ・アド・アワード ベストユースオブメディア部門 銅(Flashエンジニア)Ole! Ole! CR-Z

【趣味】

サッカー、音楽、旅行

アジアの雑多な雰囲気が好きです。写真は2015年に旅行で訪れたタイ ピピ島。
左は2018年に旅行で訪れた香港の街角。右は蘇州の運河。

【特技】

中国の話をすること。
上海で知り合った中国人の女性と2017年に結婚しました。日本にいても彼女を通して生の中国に触れることができるので、中国の文化方面については詳しい方だと思います。

最後に

自分の経歴について思い出しながら長々と書いてみました。
我ながら節操がない経歴とは思うのですが、時代だったり世代特有の不安定感が出ていて、同年代の人には共感いただけるのではないかと勝手に思っています。

もともと学生時代は社学でマスコミ志望、大学に入った当時はエンジニアになろうとは1ミリも思ってませんでした。それが、就職氷河期、インターネットバブル、出版不況、Win95発売、i-mode、mixiの出現などといった時代背景から、これからの時代はインターネットが来るに違いないという確信はあったものの、卒業して入った会社は情報系の大学出身者が立ち上げた、社内にOSが作れるエンジニアがいるような会社で、文系出身の自分は中途半端、結局自分は何になりたいのかわからないで悩みまくりました。それがこの経歴に出ているのだと思います。

自分の原点は、学生時代にたまたま買ったCGIの本のサンプルを改良してつくったモーニング娘。占いが自分の携帯のi-modeで動いていることに、自分でつくっておきながら自分で感動したという体験にあります。そのプログラムは本のおまけを改良しただけなので、本当は自分がつくったと言えるものでもなかったのですが、なぜそれに感動したのかと考えると、コードを変えることでプログラムが変わるという体験をすることで、その小さな世界において自分が「神」になるという体験を経験してしまったことにあるのだと思います。

私は自分のことを特段高いプログラミング能力を持っているとは思いません。ただ、他の業界のエンジニアに比べて、広告プロモーション系のエンジニアの能力が低いとは思っていません。この業界のエンジニアの凄さは、すばやく最新の技術を製品に落とし込む柔軟性だったり、スピード感だったり、高いバランス感覚にあると思っています。それは他の業界では真似することができないことです。また、中国に渡って見た急速な発展や、失敗を恐れずとりあえずやってみるといった精神に触れることによって、広告プロモーション系のエンジニアが持っているような能力こそが現代日本に必要で足りていない能力なのではとより強く思うようになりました。

クアドラはまだまだ小さな組織なので、チャレンジできる余地がたくさんあります。

クアドラではチャレンジに積極的で、デジタル技術を使って新しい体験を自分の手で作りあげたいエンジニアを募集中です。
一緒に、だれも経験していないような新しい体験を作り出しましょう!

(この記事の内容は2023年3月20日時点での情報です)


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