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博士論文を書くことは、自分を愛すること?

博士論文の予備審査に向けて、内容について准教授に相談した。

そこで改めて突き付けられたのは、今の自分に圧倒的に不足していて、かつこれまでほとんど意識的に身に着けてこなかった力が要求されている、ということだ。

それは何かというと、「自分自身を積極的に肯定する」という力である。

博士論文を書くにあたって行われる研究は、当該分野で最先端を行っていて、かつ独創性・新規性に優れた内容である必要がある。したがって、それは世界で初めて取り組まれる研究なのであり、その意義や成果を最初に肯定してくれる人間は、その研究を行う自分自身の他には誰1人として存在しないのである。

だから、この研究がなぜ素晴らしいのか、どこが面白いのか、どのように役に立つのか、などについて、それらを全て自分自身で説明し、アピールできなければならないのだ。

しかし、それが私にとっては苦手であり、大きな苦痛を伴う。

なぜなら、これまでの人生において、自分が積極的に認められようと外側に向かって特別なアピールをしなくても、認められてしまう環境があったからである。だから、自ら積極的にアピールする意識を身に着ける必要がなかった、という弱さがある。

すごくネガティブな言い方をしてしまったが、これは本当は幸せでありがたいことなのだ。なぜなら、自分のことを無条件に認めてくれる環境や、心理的安全性が担保された環境があるということは、子どもの成長にとって大変重要な要素になるからである。

しかし、今の自分が研究とその成果発表において漠然とした苦しみを感じるのは、こうした、これまでに身に着けてこなかった力の習得が試されているからであるということは否定できない。

振り返れば、似たようなことも経験してきた。就職活動に乗り気がしなかったのも、おそらくそれが原因だ。

就職活動というのは、「労働力としての自分自身」という商品を、労働市場において企業側に売り込み、買ってもらう行為である。それは、自分自身のこと、自分がやってきたこと、自分が出した成果、自分への投資価値などを積極的にアピールし、売り込むことに他ならない。こうした行為に対して、どこか嫌悪感や苦手意識を感じていたのだと思う。

しかしながら、博士課程での研究を人に説明するためには、まず自分自身が行っている研究の意義や成果を、自分自身が積極的に(あくまでも科学的・客観的な情報を用いて)肯定する必要がある。

これは、私の「愛情論」による解釈が可能である。

私の「愛情論」では、ある対象に対して抱く愛情には3つの段階がある。
(①全くの無関心、②「意味を与える」愛、③「受け入れる」愛)

今ここで求められていることというのは、自分が行った実験や計算によるアウトプットについて徹底的に考察し、それを適切に意味づけるということだ。すなわちそれは、自分自身のやってきたことに「意味を与える」ということを意味する。

また、今の自分が研究に対して前向きになれておらず、熱量が下がっているように感じているもう1つの可能性がある。それは、この研究そのものに飽きているという可能性だ。

私にとって、この博士課程における最大の発見とは何だったかというと、自分の研究における発見ではなく、科学研究の方法論(仮説検証サイクル)が人間の成長にも適用可能である、という点であった。

だから、それが理解できたことによって、ある程度の満足が得られてしまったのかもしれない。そこに、元々浮気性であるという私の人間的な特性も相まって、自分の研究に対する飽きがきているという可能性があるのだ。

しかし、そうしたときにこそ求められることが、第3段階の「愛する」という行為である。この研究テーマに真に向き合い、解決が難しい課題についてもそれを受け入れ、少しでも前に進められるように、という態度で接することである。

だから、今の私に求められていることとは、究極的に言えば、自分自身の研究テーマを愛することによって、「自分自身を愛する」ことなのである。自分が行ってきたことに積極的に意味を与えると共に、それらの課題を受け入れつつも世界を前に進める、ということなのである。


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