見出し画像

4/30土:「受け入れる」愛には特別な関係を。

「愛情のわからない生涯を送って来ました―」

太宰治の名作『人間失格』の冒頭を真似たのは、本当に私も人間失格なのではないかと思うほど、愛情そのものや、愛を受け取り与えるということが一体どういうことなのか、感覚的な理解のできる人間ではなかったからだ。

以前のブログで、私は愛というものについて一定の理解を得たことを書いた。その到達としては、愛とは「意味を与えること」である、というものだった。

しかし、この到達にはまだ解決できていない疑問があった。それは、一般に広く人間どうしで交換される愛情と、ある特別な関係を結んだ人間どうしでしか交換されない愛情の違いの区別ができない、ということだった。

しかし最近になって、この疑問に対する答えとして、一定の到達を得た。

両者の違いは一体どこにあるのか。

それは、前者は「意味を与える」愛であり、後者は「受け入れる」愛である、ということだ。

以前に私が到達した「意味を与える」愛というのは、基本的には数多いる人間たち全てに対して適用可能な愛であり、ある人に対して、その存在そのものに積極的に意味を与えるものである。

一方で、「受け入れる」愛とは何かというと、相手の存在に意味を与えるのとは裏腹に、むしろ自分にとって受け入れ難い相手の側面を認め、受け入れることである。つまり、嫌な部分が見えてしまったとしても、それを受け入れても良いと思えるような人こそが、自分にとって特別な愛情を持っている人なのである。

今回の到達によって、自分の「愛」というものへの理解と、自分自身という人間に対する自己分析の結果が見事に交わった。

それは、人への愛情に3つの段階(①全くの無関心、②「意味を与える」愛、③「受け入れる」愛)があるとするならば、事物をつい俯瞰的・表面的に見てしまう癖のある私のような人間は、何も意識しなければ②までしか到達できないということだ。

すなわち、事物をついマクロに見てしまう癖のある私は、誰かと関係性を築くとき、その人を詳細に分析するのは苦手であるという実感があるから、その人の良いところは比較的よく見えるが、その人の悪いところまでは見ようとしていない(この書き方だと、多くの人に当てはまってしまうかもしれないが)。

だから、人を褒めることは比較的できる。これまでの子どもたちとの活動や、研究室の後輩指導などでその傾向が表れている。しかし、分析がそれで終わってしまって、その人の嫌な部分までを見ようと深入りまではしない。

また、関わる時間が長くなって関係性が少し密になり、その人の嫌な部分の分析が仮にできたとしても、それを「受け入れる」ところまで達することは少ない。自分にとって「合わない」と思った人間のことは、比較的簡単に突っぱねられるドライさを持ってしまっている人間でもあるからだ。よく「良い人止まり」「その対応は本当の優しさではない」と言われるのはそのせいだろう。

真にその人と特別な関係を築くには、その相手の不足や嫌な部分についても認めて、それを受け入れるところまでやらなければならなかったのだ。私に真に足りなかった「愛」の感覚というのは、②「意味を与える」愛よりもむしろ、この③「受け入れる」愛だったのである。これは例えばある人にとって、職場の同僚や普通の関係の友人と、恋人や親友とを分かつような感覚である。

こうした理解を元に自分の人生を振り返ると、あぁ、確かに私は人のことを③の領域で全く愛せていなかった、と思わざるを得ない。

これまでに交際関係に発展した女性たちにも、自分としては親友だと思っている友人たちにも、今になって申し訳なさが芽生えてくる。

いつか、その人の嫌な部分もしっかり直視して認め、それを受け入れられるようになった時に初めて、真の意味で人を愛し、特別な関係を築くことができるようになるのだろう。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。