見出し画像

目的合理性を説明する難しさに打ちひしがれるのです。

研究室の学生のゼミでの発表資料などを見ていて思うことがある。

特に4年生のうちにありがちなのが、研究計画のところに、作業手順としての「実施する実験」をいきなり書いてしまうパターンだ。

これの何が問題か。

本来はまず達成したい研究目的があり、それを達成するために必要な情報やデータなどがいくつかに分類されて、それらを取得しにいくために最も合理的な方法として何らかの実験が後から選ばれるはずだ。

しかし、それを理解していない状態では、とりあえず日常的に手を動かしている実験を行うことが既成事実化してしまい、「研究目的」と「それを達成するための方法論としての実験」の間の論理がすっぽ抜けてしまうのだ。

このことについて、毎回のように先生方がゼミの場で説明したりしているのだが、あまり彼らに刺さっているように感じない。本当のところが伝わっていない、彼らが腹落ちしていないような気がしている。

自分が学部4年生で研究を始めた頃はどうだっただろうか。おそらく最初は似たようなことを注意されたと思うが、どこかのタイミングではその感覚を適切に身につけられたはずであると思っている。

しかし、この感覚を使いこなせるようになるまでに時間がかかる学生も確かにいるように感じている。

もし、学生たちがこういう感覚を身につけづらいのだとすると、それは一体なぜなのだろうか。

私なりの仮説としては、もしかしたら、「主体的に何かに取り組む」という経験が少なかったからではないか?と思う。

どんな取り組みであっても、何らかの目的意識を持って取り組もうと考えたら、その目的を達成するためには何が必要かを合理的に考えることはするだろう(実際に合理的な方法を選択できるかどうかは、その個人に依存する場合も多いが)。

しかし、もしそうした目的意識や主体性が無い場合には、与えられたことをただ行うだけになってしまい、自分で合理的な方法を選択するという思考が働かない可能性がある。

だとしたら、冒頭の問題を克服するためには、その学生の主体性をいかに発揮させるか、という点にフォーカスしなければならないことになる。

それは単なる研究指導というよりは、まさに「教育」であり、アドラー心理学でいうところの「自立」を目的とした「カウンセリング」である。

非常にハードルが高く、長い目で見る根気が必要になる取り組みであるが、それをやらないことには人間は育たないのかもしれない。

この記事が参加している募集

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。