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「博士」を取得するってどういうこと?

私は大学院博士課程に通う学生であり、予定通りいけば今年が最終学年である。あと半年で博士論文を書いて提出しなければならない、ということで、何とか頑張って取り組まなければなぁと思っている。

そんな中で、仮に博士論文を提出して学位が取得できたとしても、私は博士という学位を与えられることにどこか不安があるのである。

それはなぜだろうかと考えてみると、私の不安の原因は、「その学位に見合うような知識やスキルが身についていないのではないか」というところからきていると思う。そうした力が身についていないままに「博士」として社会に出て行ったところで、どんな社会的責任も果たせないのではないか、と思うのである。

ここでの知識とは「専門知」のことであり、私の場合は「水素エネルギー」「リチウムイオン電池」「安全工学」「リスク工学」に関連する詳細で専門的な知識のことである。また、ここでのスキルとは「研究力」とでも言えるようなもので、仮説を立てて実験・検証し、その結果を見て再び仮説を立て直す、という仮説検証サイクルのことを指している。

大学院というのはその知識とスキルを培う教育の場であるのだから、その大学院に5年間通って学位を取得した人間は、それ相応の専門知と研究力を持っている、言わば「研究のプロ」と見られてもおかしくはない立場になる。

しかしながら、今の自分にそうした研究力が身についているか、使いこなせているか、自信があるかと言えば、そんなことは全く無い。

確かに、これまで国のプロジェクト研究に参画させていただいて、自分の出したデータが法規制の妥当性検証に使われたり、その内容で何件か学会発表をしたり、何本か論文を書いたり、講演会に呼ばれて講演をしたりもしていて、それ自体は大変ありがたい話だ。

しかし、それに納得感や充実感をしっかり得られているかと言えば、そうではなかった。それはなぜかというと、これは自分が悪かったのだが、いつまでも「仕事として」やっているような感覚で、「自分ごととしてやる研究」にしきれていなかったからだ。

このことは、このブログを通してもわかる。

1年間毎日色々なことを考えて書いてきたが、「水素エネルギーやリチウムイオン電池の安全に関する研究をしています」と自己紹介に書いておきながら、毎日のブログの内容がそうした内容になったことは、1年間365日の中で1日たりとも無かった。

それは、意識的に研究の話を書かないようにしていたのではなく、書く気が起きなかった、という感覚に近い。それよりももっと、本当に興味があって、書きたくて、誰かに伝えたい、と思っていたことが他にあったからだ。

初めはエネルギー問題に興味を持ち、理系の人間として世の中に貢献できるならこういう分野かも、と思って選んだエネルギー工学の道だった。そして、人道主義を重んじる安全の思想に共感して選んだ安全工学の道だった。

しかし、今ここまで諸々取り組んでみて、もしかしたら自分は、工学(Engineering)そのものにあまり興味が無いのかもしれない、と思うに至った。

そんな人間が今、工学博士の学位を取得しようとしている。
この矛盾を一体どう説明すればいいのか?
そもそも、「博士」を取得するとは、一体どういうことなのか?

あるとき、研究室の教授が言った。
『博士は生き様だ。』
この言葉の意味が、今ようやく自分のものとしてわかりそうな気がしてきた。

ある研究分野で博士を取得したからと言って、必ずしもその分野の専門家として世の中で働き続けなければいけないわけではない。

仮に専門分野やその後の研究領域が変わったり拡張したりしたとしても、その生き様全てが、博士の学位を取った人間らしくあればいいのだ。

世の中の課題を発見し、それを紐解いて分析し、適切な問いを立てて1つ1つ丁寧に解決していく「姿勢を見せる」こと。その解決プロセスにおいて、仮説検証サイクルを回して課題に「向き合い続ける」こと。

そういうことだったのか。

だとしたら、仮に今自分自身に知識やスキルが無かったとしても、それらを少しずつ培いながら、博士の名に恥じない生き方をしていけばいいのだ。

こうした「博士としての生き様」を見せ続けることができれば、博士を取得した人間としての責務は全うできるのだろう。

あぁ、それがわかってよかった。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。