見出し画像

教育者にならなくても教育に貢献できるかもしれないのです。

先日、仕事の向き不向きについて、どんな仕事であっても自分にジャストフィットすることは無いかもしれない、ということを書いた。

私の本当に実現できたら嬉しいことは、日本をもっと生きやすい社会にすることだ。

そのために一番必要なことは何だろうか、と考えると、今のところの暫定解は、やはり「教育」を変えることであると思う。

これは子どもだけではなく、大人も含めての話である。

単に「教育」というとかなり多義的になってしまうが、もう少し表現を増やしてみると、今はやりの「学び直し」「リスキリング」といった類のことというよりも、「認識づくり」「価値観形成」などといった言葉になるだろうか。

学校教育を変えていく必要があることはもちろん、「そもそもどういう社会であればみんなが生きやすい社会になるのか?」といった認識を形成したり、「人々の多様な価値観を受け入れる」価値観を形成したりするための教育も必要であると思う。

しかし、私は誰かを教育すること(ティーチング、およびコーチング)には向いていないと思う。

それは、(まだ)相手の気持ちがわからないからである。

「まだ」とカッコ書きで書いたのは、今後の成長に期待して、という意味合いも込められているが、基本的には人を教え導くようなコミュニケーションが得意だと思ったことは無い。

ここで、こうしたビジョンを実現したいと思ったとき、自分には何ができるだろうか、と考えると、自分が誰かを教育することはできなくても、日本の教育システムを少しでも変えるために自分の力を発揮することはできるのではないか、と思えてきた。

自分が教育者にならなくても、教育界の構造を変えるためにできることはあるかもしれない。

ただし、こちらの方が圧倒的にハードルは高い。なぜなら、日本の官僚組織は、外部からちょっと影響を与えようとしたぐらいではびくともしない強靭な固さを持っているからだ。

どうすれば道が開けるのかなぁ。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。