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自分が褒められたいことについて褒められたいのが本音なのです。

普段は周りからの評価を気にしすぎないように心掛けているこんな私であっても、たまには褒められたいと思うことがある。

それも、おこがましい話ではあるが、自分が褒められたいことについて褒められたい、という図々しい思いがある。

私は、自分の出した成果や結果について褒められたとしても、ちっとも嬉しくない(普段褒めてくれる人に謝りなさい)。

自分のやりたいことをバリバリやって、どんどん成果を出していける人に憧れはあるが、私はそのように振る舞ったり、そういう仕事のしかたをするのは苦手だ。正直に言えば、ビクビクしながらそういう仕事をしている。だから、そのようなスタンスでやった仕事の内容や成果について褒められたとしても、芯を食って褒められている感じがしない。

ただ、それ以外のことで、何かしらできることはあるだろうとは思えている。

自分が何かの成果や価値を生み出すことを考えると何だか心が苦しくなるが、何かの成果や価値を生み出したいと思っている人を助けるために、その目的を達成できるようなアシストや手助けをすることは比較的楽な気持ちでできる。

ただ単に自分のために何かをしようと思ったときには強烈な自信の無さを感じることがあるが、純粋に誰かを助けるために自分の力を発揮しようと思えたときにはその自信の無さから解放される瞬間があるのである。

この感覚の正体は一体何なのか。
よくわからないが、これはこれで悪いことではないとは思う。
私がたまたまサポーティブなタイプの人間であるだけだ。

バリバリ成果を出すことはできなくても、逆に、そういう人たちがうまく走れるように、地面を整備したり足場を組んだりと、アシストする方が向いていると思う。

そして、私はそういう仕事のしかたをしているときが自分として最も充実感を得られるのであって、それに気づいて褒めてくれる人がもしいたとしたら、それはそれは嬉しく思うことができるだろう。

だから、「そんな成果を出してすごいね」よりも、「助けてくれてありがとう」「頼りになるね」「チームにいてくれると安心できる」などと言われた方が100倍嬉しいのだ。

よくよく過去を振り返って印象に残っている褒め言葉というのは、こういう自分的に芯を食った褒め言葉だ。そしてそれは、珍しいことでもなかった。

成果について褒められることもあったが、サポーティブな働きを認められることも確かにあった。

自分ではあまり自覚的になりきれていなかったけれど、たぶん私は多くの人に愛されてきたのだ、ということにこの文章を書きながら気づかされた。

それを自覚していなかったって、こいつはなんと失礼な奴なのだ。

こうして、少し風変わりな反省をしながら、また一つ歳を重ねる年末である。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。