難しく考えすぎていたのです。
「難しく考えすぎだよ」
ふと考えると、そう言われた経験が何度かあることを思い出した。
毎日思考を言語化している私の弱点として、何事も難しく考えすぎている、ということがあることに気づかされた。
私は、何かトラブルが発生したとき、そのトラブルに対応するために、一度原理原則に戻って、そこから論理を生成して考えることが多い。
その考え方自体は別に責められることではないと考えているが、モノによってはそれが有効に働かない場合がある。
それは、原理原則として整理した自分の認識や前提が誤っている可能性があるときだ。
何か新しい情報が入ってくるたびに、それに関連する思考が瞬間的に働いてしまうからこそ、あえてシンプルに思考することが苦手なのかもしれない。
確かにそういう例は身に覚えがある。
学生たちの文章を頭から読み始めて、気になる箇所があるとそれを修正することを考えて整理するのだが、その後を読み進めていくと、そもそもの主張がこういう内容なら、前段階の文章は全然違うものにした方が良くなったりして、それまでに考えていたものが一気にチャラになることとか。
私はこういう状況が発生したときに、「しまった、時間を無駄にした」とは思わずに、意外と「まぁいっか」と思えてしまう謎の感覚を持っている。
考えること自体を楽しんでしまっているからかもしれない。
これは必ずしも悪いことではないのかもしれないが、「効果的に思考する」上では課題になる場合がある。
入ってきた情報について片っ端から考えるのではなく、まずは全体をざっと眺めて、「何を考えるべきか」について整理し、予め取捨選択することができれば、目的に合わせて自分の思考力をより効果的に使うことができるのである。
これを意識的に行わないと生まれる弊害の1つは、「考えたいことだけを深く考えてしまう」ということだ。
これに気づいたとき私は、結構本質的なところを他者に指摘されたのかも、と思った。
何かを思考するときには、「何を考えることが大事か、について考えることが大事である」ことを意識することが必要だったのだ。
言葉にすると少し複雑だが、かなりメタ的思考が求められるな、と感じる。
一部の情報を手に入れたら、すぐに考え始めるのではなく、まずは情報をなるべくかき集めて、その情報たちを勘案した暫定解を出す。その後で、また改めて情報を収集して、暫定解を壊して作り直す。
そういうメリハリのある思考を身につける必要がありそうだ。
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