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火星人とボート小屋の夜


何年か前に付き合っていた人の近況を聞いた。

その話をちらっとしてくれた共通の友人は今もわたしの仲良しで、わたしの前でその話題はタブーだと思ってくれていたらしく、わざわざ近況は伝えないようにしていたようだった。

しばらく話を聞いてなかったので、もうどうなってるのかよくわからなかったのだけど、どうやらわりと近くで働いているらしい。
その話を聞いても、驚くほど心が動かなかったので意を決してこれを書いている。

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一言で言えば、へらへらしていて、動きがちょっとヘンな人だった。

数年付き合ったけれど、その人が言ってることをわたしはほぼ理解できなかったし、わたしが伝えたかったことを、その人はほぼ理解していなかったと思われる。

火星と土星くらい、遠く離れた惑星で生まれ育ったわたしたちは、言葉の選び方も、暮らし方も、何を大切にしているかも、まるっきり違っていた。
たまに火星の言葉で親類らしき人と電話で話しているのを見かけたが、それも何を言っているのか皆目見当つかなかった。



一緒にいたその何年か、わたしたちはケンカばかりしていた。わたしは365日中360日くらいは、頼まれてもいないのにその人のことでヤキモキしたり、腹を立てたり、思い悩んだりしていた。

しかし、その人がへらへら笑いながら、こちらへてろてろと歩いてくるのを遠くから見つけると、わたしはいつも単純にすごくうれしかったのだ。

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その人について考える時、決まって思い出すのが、ふたりで沖縄へ行った時のことだ。

その人が選んだ宿は、当時流行の民泊というやつで、本島から橋で繋がっている小さな無人島(家はあるが人は住んでいないという話だった)に立つ、なんと、古びたボート小屋だった。
記憶がさだかではないけれど、二人で一泊3000円という破格の安さだった気がする。


おおよそ日が暮れてから島に渡ると、待ち合わせの場所にヘッドライトをつけた自転車のおじさんがどこからともなく現れ、わたしたちを小屋へと案内してくれた。
小屋を見た時、これは旅行ではなく遭難だ、と心の奥底で思ったが、隣の火星の人はとても目をキラキラさせていたので、とりあえずは黙っておいた。

ヘッドライトの灯りでぼんやり暗闇に浮かび上がるおじさんも怖かったけれど、もっと怖かったのは小屋に電気が通ってなかったことだ。
「ここにあるロウソク使って」とヘッドライトおじさんは早口で言い、3000円を握りしめ、また自転車で颯爽とどこかへ走り去った。

わたしは暗いところがとても苦手なのだ。

加えてその夜は風がごうごうと吹いていて、簡素な小屋はものすごく揺れる。
わたしは小学生ぶりくらいに怖くて泣いた。
すると、ロウソクに照らされて大号泣するわたしの顔が怖いと火星の人は本気で怯えていた。
そこでも一回ケンカした。


さめざめ泣き続けるわたしを見かねて、「ちょっと外に出てみようよ」と言うので、しぶしぶ外に出ると電灯よりも明るい満月だった。

庭の向こうに茂みのような道があり、そこを通り抜けると、小さな小さな入り江があった。
誰も入ることのできない秘密の海。
月の光が水面に反射して、ものすごくきれいだったけど、この世じゃないみたいで、やっぱりものすごく怖かった。わたしはどうしても小屋に泊まれず夜中に近くのホテルへ移動することになった。

車で移動する途中だだっぴろい広場のような場所で輪になり、エイサーを踊る若者たちを見かけた。
真夜中の儀式みたいで、それも少し怖かった。

夜が明けて、もう一度ボート小屋へ戻ると、そこはものすごくすてきな場所で、小屋にはハンモックや露天風呂(ドラム缶みたいなやつだったけど)もあって、わたしたちは一日そこで遊んだ。
火星の人は最後まで「ここに泊まりたかったなあ」と言っていた。

たとえば、わたしが真っ暗闇のボート小屋を一緒に楽しめるような人間だったならば、もう少しわたしたちは通じ合えていたかもしれない。
勇敢に、一緒に冒険へ出かけられるような人間だったならば。
いや、でも。たぶん無理な話だった。あれは怖すぎたもん。

最後は「あなたのことぜんぜん好きじゃなかった」と言われて、関係は終わったと記憶している。
その時はもうその人は全然へらへらしていなくて、ああ、もうへらへらした姿は見られないんだなあと思うと妙に寂しかった。
わたしは土星人だから、火星人のあなたとはハナから無理だったんだ、これはもう仕方なかった、と今なら納得できるけれど。
あの時、わたしはあなたに好きになってもらえる人間に本当はずっとなりたかった。


今更だけど、わたしは今でもたまに、あの沖縄のボート小屋の恐怖の夜を思い出すよ、と土星人なりのやり方で届かないテレパシーを送ってみる。

びっくりするようなことが多かったけど、わりと楽しい日々をありがとう。
もう一度会いたいなどという感情はこれっぽっちもないけれど、あのボート小屋と秘密の海にはまた行ってみたい気もする。

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