内面の旅を終えるまでは、夢の中にい続けたいのだー「夢中」ということ
「ジミー」を読むと、「引き込まれて」本を置けないという。ほとんどの人が「一気読みしました」と感想を書く。
それは、読者が、自分の心の中の旅を始めてしまうからだと思う。
他の人の物語ではなく「自分の」心の中のことだから、夢中になってしまう。
旅を終えるまでは、夢の中にい続けたくなるのだ。だから、途中で終われない。
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読書とは、内面の旅だ。その映像は、自分の心の中のもの。
そうでなければ、ただ文字を追うという作業は退屈だろう。
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ITSUKIさんは、料理の片手間に「ジミー」を読み始めたのだけれど、気がつけば、やはり入り込んでしまっていたという。
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ITSUKIさんの記事には、彼女の「内面の旅」がどう始まり、どこに進んだのかが書いてある。
そして、大きな気づき。
「私がなりたかったのはスクールカースト上位の子じゃなくて「ジミー」だったのだ」
そんな言葉は、日常生活の中からは出てこないだろう。
そもそも、ITSUKIさんが「スクールカースト」という言葉を初めて聞いたのは、高校を卒業してからだったという。
だけど、「ジミー」は、彼女を内面の旅に連れて行った。
そこで出会った、自分は「ジミー」になりたかったのだ、という想い。
そこは、彼女が「内面の旅」をしてたどり着いた場所だ。
私はヨガをするのだけれど、そうすると、突然、何かのことばが啓示のようにやってくる。
私たちは、時折、自分の内側のことを、外からのことのように「体験」するようだ。
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ITSUKIさんの記事は、読書感想文というよりも、心の旅の記録だと思った。そして、そうであることが、私は嬉しかった。
物語を読むとは、そういうことなのだと思う。旅は、癒しのようなことと似ている。
良かったと思うのは、「ジミー」を読んでいなければ、彼女が、心の内側のある種の真実に「出会う」ことがなかったかもしれないことだ。
とても素敵だから、ぜひ、読んでほしい↓
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私は、「ジミー」がこんな風に読まれるのが、とても嬉しい。
自分の内面を旅するように読んでくれる人。そして、何かを取り出して来る人。
それは、私が書く作業と相似形だから。
だから、読者と私は同じなのだ。
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生きるとは、気づいていくこと、と私は思っている。
現実的なことを要領よくやれたらいいのだけど、私は、そうはできなくて、いつも、そんな風に生きてる。
だから、書いてるのだろう。
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内面を旅するとき、私たちは、夢の中にいるようなものだ。
ITSUKIさんにとって、おそらく「ジミー」は、旅への扉だったのだろう。
私が準備したのは、「ジミー」の世界だけ。
読む人が旅するのは、その人の心の中。
「夢中」では、「私」を失う。
そこにこそ、意味みたいなものがあるのではないか。
「私」を失ったところに、聞こえてきた声が「ほんとう」かもしれない。
「私がなりたかったのはスクールカースト上位の子じゃなくて「ジミー」だったのだ」と、ITSUKIさんは書いた。
(終わり)
※「ジミー」を読んで、(Amazonや読書メーター)などでレビューしてくださると、とても嬉しいです。その際、私まで教えてください。
いつもありがとうございます。いま、クンダリーニヨガのトライアルを無料でお受けしているのでよかったらご検討ください。