【紫陽花と太陽・下】第八話 新人教育[1/3]
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「えっ⁉︎」
今朝、スマホのメールをチェックしたら、思わず素っ頓狂な声が出た。
「どうした?」
隣で離乳食の作り方の本を読んでいたあずささんが、すぐ尋ねてきた。
「いや……。お店のことで、困ったことがあって……」
「そうなのか」
「うん、今日縁田さんと相談してみる」
「そうか……。何か、私でも力になれることがあれば言ってくれ」
あぁ、優しいなぁ……。僕はへにゃりと微笑んで、あずささんにお礼を言った。
もう一度メールの文面を読み直す。三度読んで、心の中でそっとため息をついた。
店に行くのは気が重かった。これは、たぶん、僕のせいだ。
台所をざっと見渡し、片付けが完了していることを確認した。手早く仕事着の黒いワイシャツに着替えてから、軽く髪の毛を整えた。僕の出勤はまだ一時間以上後だが、朝はあずささんの登校時間に合わせて最寄りの駅まで毎日送って行く。
「さて、あずささん、もう出発できるよ」
「……いつも、本当にすまないな」
「全然。あ、後ろに寝癖がないかどうか見てほしい」
「分かった」
あずささんは、一人で外を歩けない。
義兄に暴力を振るわれる一件であずささんは僕の家で一緒に暮らし始めた。当初は僕といつも行動が一緒だったので特に問題はなかったのだが、高校に進学し、別々に登校し始めてから怖がるようになった。少しずつ一人で外を歩くことに慣れてきた頃、レイプに遭った。それからはもう一人では外を歩けない。恐怖に押しつぶされて動悸がし、地面に座り込んでしまうのだ。
朝はほとんど僕が最寄り駅まで送っていく。どうしても難しい時は剛に頼む。帰りは同じクラスのさくらさんか日向さんが家まで送り届けてくれる。
そうやって、ずっと生活が続いている。
淡い水色の冬コートに、薄紫色のマフラーを付けたあずささんが玄関で靴を履くのを眺めた。一緒に学校までは登校できないけど、駅までの十分程は隣で一緒に歩くことができるのだ。
明るい茶色のダッフルコートを着て、僕も家を出た。
「いってきます」
「いってきます」
まだ家にいるであろう桐華姉が聞こえているかどうかは分からない。授乳中かもしれないし、爆睡しているところかもしれない。
それでも僕たちは挨拶をする。歩きだす。
本日は快晴だった。
「縁田さん、朝のメールの件ですが……」
出勤してすぐに、僕は店長の縁田さんにバックヤードでさっそく声をかけた。先に準備が整った冴木さんがちらりと僕の方を見た後、タイムカードをピッと押して準備のためにフロアに出て行った。
縁田さんが仕込み準備中の手を止めて、僕を見た。
「おぅ。遼くんが来てから報告しても良かったんだけどよ。一応シフト的に一人減るから朝メールしたんだ。心構えができるかなって。まっ、あんまり気にすんな!」
ポン! と僕の肩を軽く叩いて縁田さんがケラケラと笑って言った。
笑えない……。
冬休みにちょっとお小遣いを稼ぎたいと働き始めたアルバイトの女の子が、昨夜になって急に辞めたいと言ったそうなのだ。真面目な子だったし、飲食店勤務は初めてだったそうだけど、メモもきちんと取って忙しくても頑張って働いていた。
僕は「ホールスタッフ 主任」の肩書のため、一応新人の指導もする。
人に教えるのって難しい。
新人教育の本を読んでアレコレ試行錯誤をして、それでも今までだって辞める人はいたけれど、家族が介護になって……とか、急な転勤で……など、やむを得ない事情がある人ばかりだった。
高校生のアルバイトを雇って二人目。一人目も二人目も、急に辞めた。
胃が痛くなりそうだ。
「翠我さん、今日の予約を確認しました。最初に来るお客様はこのテーブルで良いですか?」
「あぁ、はい。佐々木さんだからこのテーブルで大丈夫です」
「分かりました」
僕は冴木さんを見た。彼女は僕が入社して数ヶ月経った頃に雇った、もう一人の社員さんだ。いつも頭の上で髪を一つにだんごのように丸め、くるくるとよく働いている。背がすごく小さく、僕と並ぶと僕の肩に彼女の頭がくるかどうかだ。彼女も勤続年数は長い。……一年ちょっとか。数週間で辞めるスタッフからしたら、本当にありがたい人である。
僕は目を閉じて両手を合わせ、心の中で冴木さんに感謝の念を示した。
「何してるんですか?」
冷めたような、呆れたような声がした。冴木さんだ。見ると目を細めて睨んでいる。
「いや、辞めないでいてくれてありがとうございますと、思っていました」
「そうですか」
「今日は、昨日までいた田中さんが辞めたそうで、来ません」
「は?」
「昨夜縁田さんに連絡があったようです」
「……。そうですか。あぁ、そういえば昨日帰り際に翠我さんと何か話していましたもんね」
ドキリとした。冴木さんは先に帰っていたはずなので、僕とその辞めた田中さんが話をしている時はいなかったはずだ。
「なぜか辞めてしまったのですが、いないものはいないので、今日は二人でやるしかないです。ピークタイムは大変かと思いますが、よろしくお願いします」
僕の方が立場は上だが、年齢は冴木さんの方が年上だ。悩んだ末、丁寧語を使うことにしている。
冴木さんが呆れた表情のまま、僕に言った。
「本当に、辞めた理由を知らないんですか?」
僕はキョトンとした。理由? 分からない。昨日の田中さんとの話は辞める辞めないのことではなかった。冴木さんは知っているのだろうか?
「えっ? 冴木さんは田中さんがどうして辞めたのか、知っているんですか?」
「……」
また睨んでいる。僕は何かしただろうか……?
「仕事に、戻ります」
ポツリと冴木さんが呟いて、いつもの様子でオープンの準備にまた戻った。
お昼時は混んだ。一月だというのに、僕は汗をかきながらせっせと動く。
「冴木さん、三番のアフターの確認をお願いします!」
「分かりました! ……食べ終わっています。聞いてきます!」
「僕は準備しておきます!」
食事の後にデザートを食べる人は食器を一度下げる必要がある。トイレをしたり別の予定もあると思うので、デザートを提供する前に一度確認を取らなくてはならないのだ。確認しなくても、まぁ明らかに食べ終わっていれば何も言わずにデザートを持って行っていいとは思うけれど、僕は一度確認を取ってから運ぶようにしていた。
縁田さんが食事のサンドイッチだったりパスタだったりを作る傍ら、デザートも作っていく。まるで手品師のようにものすごいスピードでできあがっていく。
「ほい! いちごパフェとチョコパフェ!」
「ありがとうございます!」
アイスクリームが溶けないように、急いで運ぶ。
……あぁ、レジだ。お会計のお客さんが歩いている。冴木さんは……お客さんから追加の注文がある感じでレジはできなさそうだ。人手が足りない。あと一人、あと一人いたら、少なくともパフェを運んでさえしてくれたら、今この瞬間はスムーズに回るのに……。
あらゆることを同時並行で考えながら手と足はずっと動かしていく。ここは喫茶店であってフードコートやファミレスではないはずだ。もっと落ち着いた穏やかな店にした方がいいのかもしれないのに、一体どうしたらいいのだろうか……。
カロン、と出入口のベルが鳴った。お客さんがまた入ってきた。
僕は笑顔を引きつらせながら、いらっしゃいませ、と元気よく声をかけた。
(つづく)
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