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【紫陽花と太陽・下】第七話 友[2/2]

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 慣れた手付きで、コトリ、とコースター付きで温かいお茶が目の前に置かれた。普段、俺が飲んでいるようなペットボトルのお茶じゃないのは分かった。湯呑みの中に茶葉が小さく浮いていたからだ。おかわりもあるからね、と急須もテーブルに置いたので、翠我すいがくんが茶葉からわざわざお茶を淹れてくれたのだと分かった。

椿つばき、先に食べてて」
「はぁい。お腹ぺっこぺこ」
「はいはい。あ、箸とかスプーンは自分で用意してね」
「分かったー」

 台所のキッチンカウンター越しに、翠我くんが小さな女の子に声をかけていた。女の子は俺たちがずかずかと室内に上がり込んで最初は驚いていたが、つよしが顔なじみだったせいか、剛お兄ちゃんだ、と呟いて、気にせず食事を始めたみたいだった。

 俺はそっと霞崎かすみざきさんを見た。やはりどうみても霞崎さんだよな……。紺色のエプロンをつけて、普段おろしている長い髪を後ろでゆるくお団子にしている。白いうなじが見えて一瞬目を逸らす。隣の剛が俺を肘で小突いた。

「見過ぎだ」
「こっそり見てるんだけどなぁ。てか、あれどうみても霞崎さんだよね? 剛は知ってたんだな」
「まぁな」
「同棲してるのか」
「現在の状態の名称を敢えて言うと、そうなるな」
「回りくどい言い方だな」
「うるせぇな。お茶、冷めるぞ」

 さっき出されたばかりだったので冷めるのを待っていたのだ。俺は猫舌なのだが、弱そうに思われたくなくて普段隠している。自分から言わなければ案外バレないものだ。ラーメン屋に行った時に気をつければいいくらいだし……と、そっと茶を啜って驚いた。飲み頃だったからだ。
 俺はますます翠我くんがよく分からなくなった。

「あずささんも食べててほしいな。僕もこれ出したら食べるから」
「そうか? そういうなら……先にいただくが」
「椿が一人で寂しいかもしれないし」
「分かった」
 霞崎さんが食事を乗せた盆を携えて、女の子の隣に座った。女の子は嬉しそうだ。

「それ、何だ?」
 剛が霞崎さんに尋ねた。
「小鉢のことか? これはサラダだな。さつまいもとじゃがいもとかぼちゃを角切りにして和えたものだ」
「私、これすきー」
 霞崎さんが女の子を見て、ふふと微笑んだ。女の子ががっついてサラダを食べているのを慈しむように眺めていた。

「それと、この皿はぶり大根だ」
「「ぶり大根」」
 剛と俺がオウム返しに言った。
「旬だからな」
「僕も食べる」
 翠我くんもやってきて、反対側の女の子の隣に座った。霞崎さんの隣には座らないのが不思議だと思った。

「あ、剛たちにはこれどうぞ」
 ずい、と差し出されたのは茶菓子だった。
「あー、悪いな」
 男子高校生ってこういう時間にいつも何食べるのか分からなくて、と翠我くんは困った顔で言った。晩ごはん前ではあるが自宅に帰ってから飯までには時間がある。菓子パンとか、カップ麺のひとつでも食べてしまうこともある。
 今飲んでいるお茶に合いそうな、シンプルなクッキーが三枚添えられた。
「自作か」
「そうだよ」
 剛の言葉の意味がよく分からなかったが、このクッキーとお茶はよく合った。お茶を飲み干したら、すぐにおかわりが注がれた。驚いてお礼を言おうと顔をあげると、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。……そういえば、赤ちゃんが産まれたと言っていたな。

 翠我くんが急須を手にしばらく奥の方の襖辺りの様子を伺っていたが、いつまでも急須を持っているわけにもいかず、とりあえず置いた。赤ちゃんは一旦泣き始めると長いのか、ずっと泣いていた。

「桐華さん、先ほどまでは起きていたのだが……」
 霞崎さんが呟いた。女の子は気にせずごはんをもりもり食べていた。

「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ごはんさめちゃうよ」
「あ、そうだね」
「あ、そうだな」
 女の子の言葉に、二人が同じタイミングで同じ言葉を口にしたので吹き出した。まるで双子のように息がぴったりだ。……座るタイミングまでそっくり同じじゃないか。

 しばらくして……赤ちゃんはずっと泣きっぱなしだったのだが……リビングの向こうの奥の部屋から、大きな声が響いてきた。

「遼ー介ー‼︎ ミルク、作ってぇー!」

 すぐに翠我くんが箸を置いて、再び台所に立っていった。俺の日常生活と全然違ってすごく面白いので、剛と話をすることもなくずっと家の様子を眺めていた。パコン、ジャーッ、キュッ、パコン、ドン、パチリ。賑やかな音が淡々と鳴り響く。霞崎さんが静かに向こうの部屋まで歩いて行き、それから台所の翠我くんへと歩いて行った。

「ミルク、とりあえずは百でいいそうだ」
「分かった」

 翠我くんはどうやら赤ちゃんのミルクを作っているみたいだ。思わず立ち上がって、台所を覗き込んでみた。そんなもの、俺は見たことも作ったこともない。

しょう、お前、人んちを見過ぎだって。しかも初対面だろ」
「前に一回会ってるよ」
「名前すら知らなかっただろ」

 俺は受け流し、翠我くんの手元を見た。電気ポットで湯を沸かし、洗って積み上がっている哺乳瓶を取り出して、粉を計って入れていた。冷凍庫から氷をひとすくい取り出し、小さなボウルに投げ込み、水を入れた。氷水だ。パチンと音がして湯が沸いたようだ。哺乳瓶に湯を入れて、しゃがんで量を確かめて、蓋を閉めて振っている。それを氷水に突っ込んだ。

 どれも手慣れた動作だった。
 あまりに無駄がなかったので、俺は翠我くんの表情を見ようとすると、
「恥ずかしいので、あんま見ないでほしいんですが」とやんわり咎められた。
 視線には気が付いていたのか。そりゃそうか。

 ミルクを数滴腕に垂らしていたので、何してるんだ? と尋ねると、どうやら温度を計っているらしい。

「できた」
「へぇ!」
 心から感嘆の声が漏れ出た。できあがった哺乳瓶のまわりをタオルで拭きながら、翠我くんが奥の部屋の赤ちゃんまでミルクを届けに行った。

 俺はのそりとダイニングテーブルの椅子に座った。お茶を啜る。
「満足したか?」
 剛がボソリと呟いた。俺は剛を見やる。

 翠我くんが食事を再開した。おそらく飯は冷めてしまっているだろう。
遼介りょうすけ、温め直すか?」
「ううん、大丈夫。冷めたけど、まだ温かいよ」
 短くかわされる、霞崎さんと翠我くんの会話。それ以上、必要としていない量で、話す。

「忙しいのに、来ちまった。メールもしちまった。すまん」
 剛が翠我くんに向かって言った。彼はキョトンとした。
「なんで? というか、僕のスマホ、どこに行ったんだろう?」
「なくしたのか……」
 霞崎さんが力ない声で呟いた。昨晩は読書に使っていただろう、とも付け加えて。
「後で部屋を見てみるよ」
「そうしてくれ……」
 俺はまた吹き出してしまった。

 この家は居心地がいい。

「そろそろどうして霞崎さんが一緒にいるのか教えてほしいものだな」
 俺は気になっていたことを単刀直入に尋ねてみた。ここにいる人間で、知らないのは俺だけだ。

「翔……くんは、同じクラスなんですよね?」
「修学旅行で同じグループだったから、そうなるな」
 翠我くんの問いに、剛が答える。
「ええっと、どう話したらいいのかな……」
「簡単だろ。ただ同棲してるっていえば」
「ドウセイ?」
「漢字じゃなくてカタカナで繰り返すなよ。知らねぇのかよ……。まぁ、端的に言うと、一緒に住んでいることを言うな」
「じゃあ、それだ」
「ただ、正式に結婚しないまま同じ家で一緒に暮らすっていうニュアンスで使われることが多いな。例えば恋人同士とか……」

 ダァン!!!

 霞崎さんが驚いて箸を取り落とした。翠我くんが急に机を叩いたのだ。

「剛……‼︎」
「何だよ」
 見ると、顔を赤くした翠我くんが眉をハの字にして、剛の方を睨みつけていた。察してくれ、という顔だった。必死な形相だった。

「あー……」
 剛が察したようで、頭をボリボリかいた。

「ただ一緒に、暮らしている、ということですな」
「それでよし」

 不思議な間柄だと思った。霞崎さんのこともそうだけど、剛との関係もそうだ。あまりにお互いがお互いを分かり合っているような雰囲気が、二回会っただけでこんなにも伝わってくるとは。

「お兄ちゃん、おかわりある?」
「あるよ」
「食べる」
「すごい食欲だね」
 翠我くんが立ち上がりそうになったが、その前に霞崎さんがスッと立ち上がって、女の子のお茶碗を手に取った。
「遼介、私がする。ゆっくり食べてくれ」
「あぁ、うん、ありがとう」
 確かに、翠我くんはここに座ってからも立ったり座ったりミルク作ったりと忙しい。昼間霞崎さんが『いつも忙しくくるくる動いています』という言葉は、的を得ている。

「翠我くん」

 白飯をもりもり食べている翠我くんに、俺は向き直った。おかわりのお茶も飲み干し、クッキーも全部平らげたのを見て、彼が急須を取ろうとしたので慌てて制した。

「なんか、高校生になってこういうことを言うとは思わなかったんだけど」
「はい?」
「俺と、友達になってくれませんか?」

 俺は思った。同じ中学校からの流れで、とか、部活で顔合わせをしてだんだん仲良くなる、とかいうものでないにも関わらず、俺は彼と友達になりたいと思った。小さい頃は学校や町内会の集まりなんかで、一斉に『ともだちになろう』練習のような意味不明なことをやらされた気がする。趣味、好きなもの、嫌いなものとかをお互い紹介し合って、友達になる。
 成長するにつれて、だんだんとそんなことは言わなくなった。気楽な奴とは生活していて自然と行動を共にするんだし、わざわざ友達になりましょう、などとは言わない。気が合わない奴とは疎遠になる。そんなものだ。

 翠我くんは、どれにも当てはまらない人間だ。

 今日ここで別れたら、次にいつ会えるのか分からない。もしかしたら会わない可能性だってあるのだ。

 修学旅行の時にこっそり盗み聞きした(剛は仏頂面で、これは盗聴になるんだぞと叱られた)翠我くんと霞崎さんの会話で、優先度の話が出た。時間は戻らない、と。『今』を大事にするために来たんだ、とも言っていた。

 そんなことを考えながら今の行動をするなんて、俺はしたことがなかった。したとしても、せいぜい大学に進学したいから今勉強をする、とかその程度だ。
 のらりくらり生きていて、一度会っただけの人にまた会いたいなと思ってはいたものの、自分からは特に行動しなかった。この機会をのがしたらまずい、と俺の直感が言っていた。

 普段なら恥ずかしくて言えないような言葉を彼には言った。
 彼はどんなふうに返してくれるのか。まるで未知数だった。

 翠我くんが、両手を机に置いて立ち上がり、ぐいっと身を乗り出してきた。……ち、近い!

「ほ、本当に⁉︎ 本当に僕と友達になってくれるんですかっ⁉︎」
「え? お、おぉ……」
 完全に予想の範疇を超えていた。彼は目を丸くして、赤く頬を上気させて驚いていた。
 俺はあれか? 告白でもしたのだろうか? そんな反応をするとは思わなかった。

「や……やったぁ……! 剛、見た? 聞いてた?」
「聞いてたよ」
「僕、初めて友達ができたよ‼︎」
「俺はなんだ」
「えっ? …………何だろう?」
「即答してくれよ……」
「とにかく!」
 ため息をついた剛を横目に、翠我くんが目を輝かせて言った。
「僕も! 翔くんと友達になりたいです! 嬉しいです‼︎」

 太陽のような笑顔だと思った。


 とりあえずスマホのメールアドレスを交換……というところで、スマホが見つかっていないことに翠我くんは肩をガックリと落としていた。

「ごめん……後で剛に聞いておくから」
「おー、そうしてくれ」
「あ! あと!」
「な、なんだ?」
「僕の呼び方、下の名前でいいですよ」
「あー、分かったよ」

 えへへへ、とすごく嬉しそうな顔で翠我くん、いや、遼介くんが笑った。
 今日、ここに来て良かったと思った。


 玄関で、靴を履きながら別れの挨拶をする。師走の外は真っ暗で空には星が瞬いていた。

「あ。あずささん。星だよ」
 遼介くんが玄関から見える空を指さして、霞崎さんに言った。
「家からでも……見えたんだな」
「全然気が付かなかった」
「そうだな」
 星なんて毎日見飽きてるだろうに。と二人を見れば、穏やかな顔で星空を眺めていた。
「翔くん、剛、今日はありがとう」
 急に押しかけたのはこっちなのに、なぜか遼介くんの方がお礼を言って戸惑った。
「しばらく会わねぇうちに、育児までしてたんだな」
「まぁ、そうだね。あんまり手を出さないようにはしてるつもりなんだけど……姉の旦那さんも忙しいからね。僕とあずささんでもできることを少しだけやってるって感じかな」
「そうか」
「修学旅行の最後の日に産まれたんだよ」
「へぇ。男か? 女か?」
「女の子。柚子ゆずっていう名前だよ」

 剛と遼介くんの話は終わらない。普段全然会わないと剛は言っていたのに、会えばこうしてポンポンと会話が続いていく。
 俺にはそういう友人はいない。広く浅く交友関係を築いて生きてきたせいなのか。剛が羨ましいと思った。

「またね」
 遼介くんがひらひらと手を振って、別れの言葉を言った。

 また、ということは続きがあるんだ。

 俺はいつもの言葉に、突然ストンと腑に落ちた感覚になった。どういうことだ。今までの人生で散々口に出してきたというのに。

「……な」

 剛がちらりと俺を見やった。自分の声色が、いつもの飄々としたものと違うことに、聡いお前なら気が付いたのかもしれない。


 遼介くんたちと別れ、二分後に剛とも別れ、俺はしばらく歩いてから後ろを振り返った。
 遼介くんと霞崎さんが肩を抱き合いながら、ずっと星空を眺めているのが見えた……。



(つづく)


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【あとがきではないあとがき】
前編を公開した昨日8月9日は、あらためて平和を実感した日でした。
何気ない日常の「ほんの一瞬」を切り取ったお話。
普段は遼介も仕事がありますから、夜、家には桐華姉とあずさ、椿と赤ちゃんの柚子だけのことがほとんど。初めての育児に奮闘する日常がありありと想像できます。バタバタで、大変ですけれど、ミルクを100cc飲む時期は本当にあっと言う間です。

同年代の友達がほしいけれど、関わりが薄く作れなかった遼介。
この先も剛や翔と一緒の時くらいは、歳相応に はしゃいだりふざけたりできるようになればいいな。
遼介の存在が翔を変えていくお話でした。

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