【紫陽花と太陽・上】第一話 笑わない少女
ぱりっとアイロンをかけた白いシャツに学校指定の細いリボンを結び、ジャケットとスカートを校則で決められた通りに着る。私は決まりを守ることが苦痛ではない。同じクラスメイトの女子よりやや長めにはいたスカートは、萌黄色の生地に茶とえんじ色のチェック柄だ。春に転校してから二ヶ月ほど経ち(転校前はセーラー服だったので初めはブレザーの制服に驚いた)、やっとこの制服にも見慣れてきたと、私は感じていた。
自分の教室にいつもの時間ぴったりに着き、机に教科書やノートをしまう。すでに教室にいるクラスメイトたちはそれぞれ好みの友達同士でおしゃべりを楽しんでいる。
私はいつも感心する。
みんな本当にたくさんの話題に溢れている。そして話のジャンルも多岐にわたる。
好きな芸能人や音楽アーティストのライブに行った話、他のクラスの、誰と誰が付き合い始めた、そして別れた、先生に対する困った点……これは一般的には悪口というのだろうか? ……など、とめどなく話している。
転校当初は話しかけてくれたクラスメイトも私とはあまりにも会話が続かないために、一人、また一人と去って行った。無理もない。私だって人と話すことがとても難しいと思っているのだ。
ただ一人を除いては……。
「あずささん! おはようっ!」
どうやら私はクラスメイトの話をぼうっと聞きながら別のことを考えていたようだ。
突然の挨拶にかなり驚いた。
(……お、おはよう)
心の中で呟き、でも声に出さないと相手には聞こえないのだという事実に気が付き、やっと私は大声で挨拶をした目の前の男子生徒に返事をすることができた。
「……お、おはよう」
「あっ、今日は返事が来た! おはよ、あのね、朝家を出たところに黒猫がいたよ!」
(……猫?)
「あずささんは猫、好き?」
(……好き?)
「ペンケースが黒猫だったから、好きなのかなぁって思ってたよ」
そこまでしゃべって、目の前の、翠我遼介という彼はふと黙った。
声が大きい。相当大きい。
私には人生で一度も出したことのないほどの声量で彼は話しかける。毎日、毎朝。
たとえ私が返事をすることができなかったとしても、いつも。
「……ペンケース。よく見ているな」
私は小さな声で言った。
遼介の目が丸く見開いた。大きくて、輝いていて、まっすぐ貫いてくる瞳だと思う。
「僕も猫は好きだし、猫グッズとかついつい見ちゃうよ。すっごくかわいいし」
私が頷くと、遼介が続ける。
「うちで飼いたいけどさぁ、お金ないし、昼間家に誰もいないし、それだとやっぱ難しいかなって……」
遼介は私が猫が好きかどうかの返事をしていないことを気にしていないようだった。そうやって、いつも他愛もない話をしたり、しなかったりして——しない日は、大抵は遼介が宿題を忘れた日だった——二ヶ月ほど過ぎていた。
気が付くと遼介は私の前の席に座っていた。私が返事をした方がいいのか内心困っているうちに、彼の中で会話は終わったようだった。
「ああーっ!!」
素っ頓狂な声をあげ遼介が仰け反った。
「うわぁーっ! ど、どうしよう……。あっ、おはよ、剛」
挨拶だけはしっかりした遼介がクラスの中で最も一緒にいることの多い友人に、今起こった出来事を相談し始めた。
(……今度は何だ)
遼介の後ろに私の席があるので、どうしても彼の慌ただしい行動が目に入ってしまう。
会話だって筒抜けだ。
どうやら鞄に入れていたお弁当がひっくり返り、液体がこぼれてしまっていたようだった。
遼介の友人は慌てることもなくねぎらってやるでもなく、話を聞きながら彼の困った様子を見ていた。慣れているのかもしれない。彼なら今までに何度もお弁当をひっくり返したことがありそうだ。
クラスメイトの女子たちが同情しているようだ。翠我遼介という少年はとても好感を持たれている存在らしく、彼の机にはたくさんのポケットティッシュが積み上がった。この量なら液体をしっかり拭けそうだ。
「おーい、そろそろ時間だ。ホームルームはじめるぞー」
ガラリと教室の扉が開き、担任の教師がやって来た。
教室に入った瞬間立ち止まり、何やら匂いがすることに驚いていたようだったが、原因が遼介だと見るとウンウンと頷き、何事もなかったかのように続けた。
「お弁当、大丈夫か分かんないけど、大変だったよぉ」
急に振り向いてにこにこと笑った遼介は大変だったという気持ちをどういうわけか私に話した後、満足そうにまた前を向いた。
◇
俺は霞崎あずさのことが苦手だった。
とはいえ、まぁ大抵の男なら第一印象は間違いなく「可愛い」と思う見た目をしていることは断言できる。
あずさは黒くてサラサラの髪を肩下まで伸ばしている。肌は白く、少しつり上がった大きな瞳は猫を連想させる。頭が良く、姿勢は常に凛としており、他の女子のように足を組むなどだらしない格好をすることはまずない。容姿端麗、清楚な女だ。
ただ……。
ただ、まったくといっていいほど、笑わない女だった。
遼介とは幼馴染だった。
生まれた時からお互い近所にいたので(両家が徒歩二分の距離にある)、本当にずっと一緒にいた。遊ぶのも、寝るのも、泣くのも、笑うのも。
中学二年生の今でも交友は続いている。俺は剣道部に所属しているので部活のある日はもちろん別々だが、それでもタイミングが合えば一緒に帰宅することもある。
ホームルームが終わり、一時間目は数学だった。数学は得意だ。
俺は(自分で言うのも何だが)頭が良い。一年生の時はいつも成績が一位だった。二年に進級し先日発表された最初のテスト結果を見て驚いた。あずさが一位だったのだ。
(それはいいんだが……)
俺はひとりごちた。
自分がモヤモヤしている理由を見つけようとする。物事全般の精査は得意だ。
ここ最近、俺は気分が優れない。優れない理由がはっきりしないのも、またモヤモヤしている原因となっている気がしてならない。
先ほどの遼介の弁当事件についてもなぜかモヤモヤする。朝、教室に着くなり奴が泣きついてきた。弁当を逆さまに入れて来たらしい。一体どうやったら逆さに入れるのか見当もつかない。
鞄の中は悲惨な状態だった。漏れた汁は高野豆腐の煮汁だと言っていたが、そんなことはどうでもよく、早く拭けよと言った。
自分の顔が笑っているのが分かる。遼介も笑っていた。
だって、鞄の中の煮物臭がものすごかったからだ。今からこれは高野豆腐カバンと命名する、などと奴が言ったものだから、声を出して笑いそうにさえなった。
幸いクラスの女子たちがティッシュをくれたようだったから、遼介はしっかり処理したようだ。人徳だな。もちろん俺はそんな紙は持ってない。奴が笑っているから安心した。こいつにとってはこんなこと、大したことじゃないんだろう。
大したことじゃなかったとしても、だ。
真後ろの席にいるあずさは顔色ひとつ変えず、何もせず、言葉さえなかった。
普通は『大丈夫?』くらいきっと言うはずだ。おかしいだろ、人として。
頭をよぎるのはここ数ヶ月間の遼介とあずさのこと。
遼介がほとんど毎日ずっと話しかけているけど、何にも変わった感じがしねぇ。
いや、そもそもあの女はあえて避けてるんじゃないか……?
(俺が困ることは遼介が悲しむことだ)
小さい時から遼介は泣き虫だった。
泣くたびにいじめた相手を蹴散らし、話を聞き、二人で解決策を考えてきた。
お互い違う友達と遊ぶことも増えたが、本当に困ったことがあった時は俺自身も遼介に相談してきた。
数学の証明問題の回答が黒板に書かれている。
今日は天気がいいので文字が見やすい。
俺は思考を授業に戻し、今解かれている問題——それを教室の黒板に書いているのはあずさだ——を見て流麗な字かつ模範回答であることにうんざりし、もう一度考える。
(笑わないってのは短所、気を遣わせる。だが、人の悪口を言わないところは、長所)
俺はなんとかあずさの長所を見つけ、思考を終えた。
「人のいいところを見てこうよ」
それを教えてくれたのは遼介だ。今では二人の約束事になっている。
天気がいいので、四時間目の体育(今日は短距離走のはずだ)もとても楽しみだ。
俺は体育ももちろん得意なのだ。
◇
ゆっくりと家までのゆるい坂道を登りながら、僕は今朝の出来事を思い出していた。
いつも話しかけても返事をしないあずささんが今日は少しだけ返事をしてくれた。
ひっくり返ってしまった弁当箱の件もそっと助けてくれた。
僕は、あわてんぼうだ。おっちょこちょいだともよく言われる。すぐ忘れ物をするし、つまづいて転ぶし、人の話をしっかり聞かないで行動してしまう。今朝もきっと遅刻しないようにと急いでいたせいで、お弁当を逆さまに鞄に入れたのかもしれない。
あずささんはひととおりお弁当の汁気を拭き終わったところで、後ろの席からおずおずと袋とおしぼりを渡してくれた。
汚れたティッシュとお弁当箱を入れるための袋と、手を拭くためのおしぼり。
ティッシュをくれたクラスの子はたくさんいたが、それをくれたのはあずささんだけだ。
僕はとても嬉しかった。
「ただいまぁ」
いつものように誰もいない家の中に僕の声が響き渡る。
分かってはいるけれど、ついただいまの挨拶はしてしまうのだ。
僕の家は一軒家だ。うすいクリーム色の壁、緑の屋根とこげ茶色で統一された窓枠と扉でこしらえた、父さん自慢の家だ。家族を愛する父さんは単身赴任でいつも家にいないけど、この家には四人の子供たちが住んでいる。
「さて、今日の予定は何かな……」
僕は台所近くの壁に貼ってある大きなホワイトボードをざっと見た。この家で伝言板として使っている。
『りょうすけへ つばき お迎え よろしく 十七時まで とうか りえ』
名前が書かれたマグネットを使い、メッセージが残されていた。
僕はいつも保育園に妹を迎えに行く。ボードの隣の大きくて読みやすい時計は、今十六時十分を指している。
僕は妹の迎えを、帰ってからやろうとしていた宿題を始末してからにしようか悩み、自分の頭では三十分では終わらなさそうな内容だったと思い、諦めた。
でもまずはお茶を飲みたい。
台所に行き、ポットに水を入れて湯を沸かす。
この家で毎日大活躍している電気ポットだ。そして食器棚から姉の好きな苺柄のティーポットと湯のみを用意し、熱いお湯を注いだ。
僕はお茶を淹れる時の少しずつ香りが出てくるのが好きだ。特にほうじ茶が。香ばしくて懐かしい。
昔母が作ってくれたお弁当の水筒にはいつもこのお茶が入っていた。
家族のことを話そう。
僕には姉が二人と妹が一人いる。姉たちは働いており、長女の桐華は幼稚園の先生をしている。たくさんの子供たちとたくさん遊び、歌を歌い、絵本を読む。だが、園の子供達と遊ぶには、自分の妹を保育園に預けなくてはならなかった。
次女の梨枝は会社員だ。地元の小さな事務所で事務をしている。事務の仕事はよく分からないが、僕は算数が得意でないとできない仕事だと思っている。
さて、そろそろいいかな。お茶を飲もう。
いつの間にかぼんやりと考え事をしていた僕はティーポットからお茶を注ぎ入れた。
湯のみの中は茶葉を入れ忘れたらしく、透明な湯が入っていた……。
「ねーっ! 遊ぼーよっ! おままごと! お兄ちゃんはダンナさんねっ」
椿は、お迎えに行き(お茶を淹れ直したために時間ギリギリになってしまった)帰って来てからずっと僕にからんでいた。
そもそも遊ぼうよと言っているが、さっきからずっと遊んでいるはずだ。
「はいはい……えーと、仕事に、行ってくるよ」
「ダメよっ! ダンナらしくないっ!」
「えー、そうかなぁ?」
「カバンももってないし、ネクタイしてないし、いってきますしてないもん!」
「あぁ、うん……。カバン、これでいいかな。行ってくるよ、バイバイ」
「はい、いってらっしゃい、アナタ!」
「……椿はどういうダンナが好きなのさ?」
「だからそういうの、いっちゃダメなんだってばーっ」
しばらくして梨枝姉が帰宅し、買った食材を冷蔵庫にしまってくれた。
椿のやんちゃぶりに辟易している僕を見て苦笑し、お迎えありがとうと礼を言った。
僕は今日の園での様子や連絡事項を伝えながら、お弁当がまだ鞄に入れっぱなしだったのを思い出した。取りに行こうとすると椿は僕が遊んでくれないと思ったらしく、ほっぺを膨らませて抗議した。
結局宿題はできなかった。
椿がプリントを広げたテーブルに、盛大に牛乳をこぼしてしまったのだ。
「乾かしてアイロンでもする?」梨枝姉がアドバイスをくれたが、断った。
ちらりとプリントの問題を見たけれど、さっぱり解き方が思いつかないものばかりだった。こんなとき僕はいつも剛に聞いていたけれど、たまにはあずささんに聞いてみるのもいいかなと思った。
あずささんは頭が良い。
全然笑わない人だったので初めは笑わせてあげようと思って話しかけていたけど、今はもう何を考えている人なんだろうという興味の方が勝っている。
「遼介。今日はごはんの片付け、私がやってあげるわ」
遅くに帰宅した桐華姉が珍しく片付けをしてくれた。
この家では椿の送迎とごはんの支度は僕、他の家事は分担制となっている。
リビングと台所の両方からよく見える壁に、伝言板として使っているホワイトボードと一緒に家事分担表と書かれたものが掲げられている。数年前に母が亡くなってから自分たちで相談して決めたやり方だ。
とはいえ、言うほど簡単な分担ではない。朝早く出勤し帰りも遅めの姉たち。
朝はごはん支度以外に弁当も作らないといけないので(保育園は給食。姉たちの分と給食のない中学校の自分の分、計三個)僕の起床時間は毎朝五時だ。
そんなに早起きなくせにバタバタと朝が過ぎ、椿を送って行き、それから学校へ。
結局いつも遅刻して叱られる。
「あー、ありがとう。じゃあお風呂行ってくるかな」
「椿も一緒に入れてくれると嬉しいんだけど……」
片付けしてくれるって、それが狙いか……!!
椿がこっくりこっくりと寝るモードに突入していたので、慌てて僕は椿を風呂に入れた。今日は保育園で公園に行って相当遊びまくったらしい。髪の毛が砂まみれになっていた。じゃりっと音がする。
毎日が慌ただしく過ぎて行く。
宿題のことも、授業で聞いた話もすべて忘れ、椿の寝かしつけと同時に僕は寝落ちした。
◇
地方にしては珍しい七階建てのタワーマンションに、私は住んでいる。
学校から徒歩十五分ほどの、四角く無機質な建物に。
『モダンな佇まい』と評されるダークブラウンをメインとするエントランスをくぐり、ホテルのロビーのようなタイル張りのオートロック部屋で、一階入り口の鍵を開けた。コツコツと靴音を響かせて、私はエレベーターでまっすぐ最上階に向かった。
四角い箱が音もなく登って行く間に、私は帰ってからやるべきことを考える。
まずざっと部屋の掃除をしてから洗濯物をしまい、晩ご飯の仕込みをしよう。そしてあらかた仕込みが終わった段階で、少し本でも読もう。
鍵を開けて家に入ると空気が淀んでいた。
(兄がいる……)
私には年の離れた兄がいる。兄といっても血は繋がってはおらず、父がどこからか養子縁組をして家族となった男だ。名前は、霞崎鋭司という。
玄関からまっすぐ廊下を歩き、リビングの扉を開ける。床も壁も真っ白で扉だけは黒というモノトーンで統一されたこの家は、二人で住むには十分な広さだ。カーテンは閉められ(朝、私が全部開けておいたはずだった)、床には酒や食べ物が散らかっていた。いろんな酒の混じったひどい匂いがする。……だが兄は見当たらない。
私はそっと気配を確かめ、それから静かに窓を少し開けた。
風呂場で水の音がする。兄は風呂に入っているのかもしれない。
歩くだけで足の裏に食べかすがついてしまう。汚れがひどい場所はティッシュでざっとぬぐっておいたが、他の場所は一度聞いてから掃除に取り掛からないといけない。
この家は兄が主人だ。
兄の機嫌を損なうということは私はここにはいられないということと同じで、それはこの家ではタブーということになっている。
「帰ったのか、あずさ」
突然後ろから声がして、私は飛び上がるほど驚いた。実際少し声が出てしまった。
「……ただいま」
「泊まりの予定だったが、早く帰って来た。少し、疲れた」
兄はお酒のせいか少し顔を赤くして呟いた。私は床に散乱している酒瓶の量をちらりと確かめ、兄の機嫌が相当悪そうだと思った。すごい量を飲んだようだ。
風呂に入ってくる、と言って(先ほどの水音はお湯を張る音だったのだ)兄がリビングを出て行こうとしたので、私は部屋の掃除をする必要はあるかどうかを確かめ、許可が出たので掃除に取り掛かった。
エレベーターの中で立てていた予定はすでに頭の中になかった。
兄が風呂場から腰にバスタオルを巻いただけの状態で出てきた時、部屋は元どおりになっていた。
「六時に、百合が来る」
ポツリと兄は言った。
声がしたので振り返り、私は時間と要件をもう一度頭の中で反芻してみる。つまり、その時間はリビングから席を外せと言っているのだ。
「……分かりました」
返事をした後、私は手に持っていた割と重いコードレス掃除機(吸引力のすごいやつだ)をしまうために廊下に行き、代わりに乾いた雑巾を手にして戻ってきた。
兄が歩いてきた風呂場からリビングまで水が滴っていた。黙々と拭った。
私はいつも思う。
頭の中に霧がかかっているみたいだ、と。
まるで透明な膜でもあるかのように人の話していることがすぐに届かない、と思う。
だから何を返事したらいいのかよく分からないし、返事を考えなくてはならないし、遅くなるのでそのうち返事もし損ねてしまう。話はどんどん進んでいってしまう。
仕事の打ち合わせのためにやってきた百合さんという兄の秘書の女性が帰宅したので、急いで食事の支度をしながら私は考える。
膜があっても、しゃべらない日があっても、日常は問題なく流れていくのだ。
やるべきことさえきちんとこなしていれば。
* * *
ある日図書室に来た。
小学校の時もそうだったが、私が通う中学校にもきちんと図書室というものがあり、こじんまりとしていながら結構面白い書籍を取り揃えているなと感心した。市営の図書館に出向けばもっとたくさんの書籍が読めるが、あいにく私は外出をするにも兄の許可が必要なので、本を借りるのはもっぱら学校の図書室だ。
今日は歴史の授業で教師がしてくれた小話に当たるものを借りる予定だった。今手にしているのは「江戸時代のおもしろ雑学」と「江戸文化〜蕎麦の食べ方十選」の二冊だ。
他にも読みたいものがあるかと、私は図書室の中をゆっくりと回って行った。
「あ……」
つい声が出てしまった。すぐ隣の書棚に遼介がいたからだ。
彼は眉間にシワを寄せ、あごに手をおいて熱心に本を探していた。児童書の棚だった。
「なーいー……なーあー……」
正直なところ、私は遼介がそれほど本に興味があるとは思っていなかったので……授業中は寝ていることもあるし、宿題も忘れることが多いからだ……図書室にいることにとても驚いた。
いつもなら誰かに話しかけることはまずないのだが(その後の会話において、なんだか透明な膜のせいでうまく続けることができない)、今日は相手が遼介なこともあって声をかけてしまった。
「何か、探しているのか?」
口に出してからすぐに後悔した。探していることなど見れば分かることなのに、なぜわざわざ聞いてしまったのか。他に言うべきことはなかったのか。恥ずかしさに似た感情を覚え、私は話しかけなければ良かったとすぐに思った。
「あれっ?」
遼介が振り向いた。目をパチクリさせ、心の底から驚いている顔をしている。
しばらく沈黙が続き私はさらに後悔した。
(だから、話をするのは苦手だ……)
「うーん、探してる。絵本。五歳くらいが対象の」
そう言って遼介は妹のね、と付け足した。かなり遅い返事だった。
想像するに、私の質問が時間をかけてようやく遼介の頭の中に届いたようだった。私の声はしっかり届いていたようだ。
「絵本」
「やっぱり中学校の図書室にはないのかなー……」
遼介は妹がいるらしい。五歳というと……かなり年が離れている。
私は遼介が眺めていた児童書の書棚を見た。中学校にある児童書はさすがに絵本のたぐいは見当たらず、知った本でミヒャエル・エンデの『モモ』が目に入ったが、その歳の子供が読めるものではないと思った。
「……図書室にいたから驚いた」
思ったことがそのまま口に出た。遼介は私を見てそうだろうねという顔をして、僕も図書室にはあんまり来ないよと言った。大きな声出せないし、とも。
もう一度遼介は書棚を見たが、すぐに——本当に突然百八十度くるりと回転し——帰る、と言った。
「あずささん、僕はもう絵本なさそうだから帰るけど。その本、借りてくる?」
遼介に促され、とりあえず今日は二冊だけにして、私たちは静かにその部屋を出た。
「あーっ! やっと普通の声、出せるーっ」
(普通の声……)
遼介のいろんな言動にはいつも驚かされる。今日も私は心の中で不思議な人だと思った。
私たちは帰る方向が一緒だった。それで、なんとなく一緒に帰ることになった。
誰かが隣にいて一緒に歩く。私にとってとても不思議なことだった。
「あずささん、図書室、よく行くの?」
「……そう、だな。たまに行く、かな」
「そっかー、難しそうな本とか選びそう」
ゆっくりと歩きながら話をした。なぜだろう、遼介とは会話をすることに怖さを感じない。彼は大きく伸びたあと、豪快にくしゃみ(!)をし、私の視線に気が付くと少し照れた表情になった。自由な人だなと思った。
「それ、歴史の本?」
遼介が私の手元の本を指して言った。それから目を輝かせて楽しそうに続けた。
「えーっ? それ、蕎麦の食べ方十選⁉︎ 江戸時代って書いてあるー」
歴史の本って言うからもっと難しそうだと思ってたけど……と、遼介は眉をひそめ、そしてどんどん続ける。
「そんな面白そうな本もあるんだねぇー」
と、にっこり笑ってしきりに感心した。くるくるとよく動く表情だと思った。
遼介には妹がいて、姉もいて、兄弟姉妹が多い家庭のようだった。年の離れた妹のためにと図書室へ絵本を探しに来てみたのだが、残念ながら幼児向けのものはなかった。
会話と呼べるのかは分からないがたくさん話した。主に遼介の妹の話だった。
「でさ、最近特にこだわりが出てきて、椿、絵が好きだから絵本も読むんだけどさ。……あっ、椿って妹の名前ね。僕の」
(つばき……かわいらしい名前だな)
「家にある小さい子用の絵本じゃつまらないって幼稚園からもたまに借りてくるんだけど、僕の方でも探してみようかなって」
(絵が好きな、女の子向けの絵本か……)
「……市立図書館とか、本屋さんに行けば見つかりそうだな……」
「シリツ図書館? 電車とか乗るのかな? 遠いかなぁ?」
「……私もこの街に来てから行ったことはないから……場所までは……」
提案はしてみたものの、場所も知らない、一緒に行くことは(兄の許可が必要なので)できない。本当に私はどうして口に出してしまったのだろう。
今ここから逃げ出したくなる気持ちとは裏腹に、なんと遼介は私にお礼を言った。
どうしていいか分からない。なので黙っていた。
公園の隣を通り過ぎた。その公園には大きな木が中央にそびえ立っていた。瑞々しく、濃い緑の葉をたくさんつけた、力強い木だと思った。
ふと私は思い出した。昔、小さい頃一度だけ母親から渡された、一冊の絵本を。
「……木のうた」
大木を眺めて呟くと遼介が「え?」とこちらを向いた。
「……明日、私の家にある絵本、持ってくる」
今もはっきりと思い出せる母からの絵本。私の所持品はもともと少ないので、その絵本は自室の机の上に置いてある。教科書やノートと一緒に。
よく聞き取れなかったのか遼介は不思議そうな顔をしていたけれど、私はそれでもかまわなかった。久しぶりにあの絵本のことを思い出して心が浮き立った。
分かれ道で挨拶をして帰宅すると、私はさっそく絵本を探した。
◇
大きな木があるその公園は、昔は剛と一緒に、ここ最近は椿と一緒に遊んだ場所だ。
あずささんはその木を見て(なんて言っていたかよく聞き取れなかった)懐かしそうに遠くを見つめるような顔をした。言葉が少ないから想像しかできないけど。
いつもと同じ、夏の初めの草とか葉っぱの匂いであふれているその公園がとても特別なものに思えた。
あずささんは今年の春にこの街に来たからここでは遊んだことはないだろう。初めての場所、初めてのことばかりの生活は僕には想像することができない。僕はずっとこの街で暮らしてきたから。
今日はあずささんといっぱいお話ができた気がした。僕ばっかりしゃべっていた気もしないでもないけど、椿のための絵本も見つからなかったけど、それでも満足している。
翌日、あずささんから一冊の絵本を手渡された。
『木のうた』という、絵だけの、文字が何一つ書かれていない絵本。
一本の木と動物たちが登場し、季節が変わって行く様子が水彩で描かれている。いろんな色を重ね合わせるとこんなに美しくなるなんて知らなかった。
「ありがとう!」
なんて素敵な本を知っているんだろう。笑いが止まらない。
「きれいな本だね! 早く椿に見せたいよ!」
そう言うと、あずささんは目を伏せた。
その日初めてあずささんは、僕をなんと呼んでいいか聞いてくれた。
(つづく)
(各話へのリンクはこちらから/全16話/完結)
第一話 笑わない少女
第二話 試合観戦
第三話 命日
第四話 番外編 ことば
第五話 報告会@遼介宅 中学二年生/六月
第六話 わすれもの
第七話 お茶飲もう
第八話 ためいき
第九話 夏休み
第十話 逃避
第十一話 一歩、前へ
第十二話 だし巻き卵のお弁当
第十三話 宿泊学習
第十四話 究極の年越し蕎麦
第十五話 報告会@遼介宅 中学二年生/年明けて一月
エピローグ 太陽
上巻を公開してのあとがきも更新しました(2024.3.27)
最後までお読みいただき感謝いたします。
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