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【紫陽花と太陽・上】第九話 夏休み

(暑いな……)
 夏休みが始まり、私は今買い物の帰り道を歩いていた。
 両手から下げたビニール袋がガサガサと音を立てる。米を買ったので、腕が痺れてしまうほど荷が重くなってしまった。
(無理せず、二回に分けて買い出しをすればよかったかな……)
 百合さんに連絡をすることは避けた。言えば「ではタクシーで」ということになり、確かに楽ではあるが、近所のスーパーくらい一人で行きたかった。
 大きな木が中央にそびえ立つ公園の横を通る。夏になり、大木はのびのびと枝を伸ばし、たくさんの葉を繁茂させていた。大きな木の影は遊んでいる子供たちの憩いの場となっていた。
 私は少し休憩をしようと公園のベンチに腰を下ろした。
 夏休みのせいか公園には何人かの子供たち、そして親が遊びに来ていた。暑いのに子供たちは走り回り、中には水遊びでびしょ濡れになっている子もいた。

「あずさ、おねーちゃん……?」
 おずおずと自分を呼ぶ声が聞こえ、驚いて目の前の子を見た。遼介りょうすけの妹だった。
「おねーちゃん! あそびにきたの⁉︎」
 麦わら帽子をかぶり苺の髪飾りで二つに結っている椿つばきちゃんは、すごく嬉しそうな顔をしてポンポンと私の手を叩いた。黄色のサンダルに包まれた小さな足は砂まみれだった。
 買い物袋もあったので困っていたところ、砂場から遼介があわてて飛んで来た。
「ごめんなさいっ! あれっ? あずささんだ!」
「……暑いのに、すごいな」
「ほんと暑いよ! 汗ビッチョリだよ!」
 遼介がTシャツの首元にパタパタと風を送る。シャツには「風」と書かれていた。
「あずさおねーちゃん、あそぼー!」
「椿ー、あずささん、買い物中だって。遊べないよ」
 意外とまわりをしっかり見ている遼介は私の荷物に気が付いていたようだった。
 ぶーと口を尖らす椿ちゃんを優しくなだめながら、遼介は自宅近くまで荷物を運ぼうかと尋ねてきた。私が答えぬうちから椿ちゃんもその気になっている。

「すまないな」
「いいよー、暑いのに買い物おつかれさまです」
 お米って、ホント大変だよね、と遼介が呟く。椿ちゃんは買い物袋の中から仏壇用の花を持ってもらうことにし、くるくる振り回して歩いていた。
「椿、それ、お花だよ。自分のじゃないんだから、振り回さないでちゃんと持って」
「ぶー」
「椿ちゃん、お花には持ち方がある。知ってるか?」
 椿ちゃんが不機嫌になったので、私は話題を変えてみた。とたんに興味が湧いたらしい。私の不器用な説明を真剣な眼差しで聞いてくれた。
「これでいい?」
「ああ、とてもいい。下を向いている方が、花にとっては楽なんだ」
「ふぅん」
 遼介が微笑んで私達を見ていた。椿ちゃんは花を剣のように遊ぶのをやめて、教えた通り丁寧に持ってくれていた。

「どうもありがとう。助かった」
 マンションの玄関前に到着した。三人とも汗だくだ。
「全然。顔が見れてよかったー」
 遼介がにっこりと笑って言う。面と向かってそのようなことを言われると、なんて返事をしたものかと戸惑ってしまう。
「夏休みはなかなかあずささんと会えないから、元気かなぁって心配になるよ」
「そうか? この前から遼介、少し心配しすぎだ」
「心配だよ。だって、お兄さんと二人暮らしなんでしょ? どうするの、また痛いことなったらさ」
 遼介にまで暴力が及んだあの一件の後も、兄とはいつも通りの生活を送っている。上靴を買いに行く時には何を言われるか肝が冷えたが、結局逆鱗に触れることもなく無事に百合さんと一緒に買うことができた。
 いつも通りの——まるであの激昂した兄は存在していなかったように——生活が淡々と続いていた。
 また考え事をしていたようだ。視線を上げると、心配そうに私を見つめる遼介と目が合った。
「今度、また会いたいなぁ」
「あずさおねーちゃん、あそぶ?」
「今日は無理だって。ここでバイバイするよ」
「はい、おはなさん」
 私は椿ちゃんから仏花を受け取った。茎のあたりがほのかに温かい。
 礼を言い、バイバイと手を振り(椿ちゃんに対して)、遼介にも礼を言おうと顔を上げた。
「またね」
 少し困った笑顔で遼介がひらひらと手を振っていた。

 ◇

 今年の夏休みは中学校で二度目の夏休みだ。クラスのみんなはやりたいこととかを口々に語っていた。来年は高校受験が待っているので、実際思いっきり遊べるのは今年が最後だと思う。
 我が家も父さんが単身赴任先から家に戻ってくる予定があるので、イベントを模索している。椿も保育園に慣れていろんなことに興味がある歳になってきた。キャンプ、近所のプール、海まで足を伸ばすか、遊園地や水族館も面白そうだ。父さんの好みで温泉地に泊まるかもしれない。毎年、家族旅行という名目でわりと大きな旅館に皆で泊まりに行く。本当は五月に行く予定だったけれど父さんの仕事の都合で延期になった。また行けたらいいなぁ。

 今、椿は珍しく昼寝をしている。炎天下の公園でガッツリ朝から遊び倒したので、昼食を少し食べてから爆睡だった。同じ保育園のお友達が一緒だったのも嬉しかったみたいだ。
 僕と椿の夏休みが始まってから数日経つが、毎日椿と公園に行っている。
「腕……もう焼けてきた」
 一昨年、去年、そして今年の椿はどれも違う。遊び方も、僕が公園に付き添うやり方も。今は僕がつきっきりで遊ばせる必要はなく、友達と勝手に遊んでいるのを見守っている状態だ。

 僕はカルピスを飲んだ。
 はっきりいって、あずささんのことが心配だった。
 夏休みは長すぎる。つよしがDVについて教えてくれた時、そんなことが世の中にあるのかと信じられなかった。たった一回しか彼女のお兄さんに会ったことがないので、どうしたらいいのかも分からなかった。あずささんは「そんなに心配することはない」「大丈夫だ」とあっさりした感じだったけれど、本当にそうだろうか。
 彼女の持ち物が隠されたり捨てられたりすることも不安だった。
(どうして、あずささんなんだろう)
 あずささんは真面目だ。とても善良な人だ。
 人を悪く言わない。嘘もつかない。目の前のことに真摯に向き合っている。
 椿にも……僕は以前、椿と話す時にしゃがんで話しかけているあずささんを見て驚いた。子供扱いせず、椿を一人の人間として話をしてくれていた。僕が知っている同い年の子はしゃがんだりしない。

「また買い物の時とか、会えないかな……」
 カルピスを飲み干す。椿がウーンと呻き、寝返りをうった。そろそろ起き出す頃かもしれない。

 ◇

 今日は翠我すいがくんの家に寄ってみることにした。
 学校では校則違反となるので付けられないお気に入りの髪留めを付け、いつもよりおしゃれをした。服装だって派手すぎない程度に気合を入れてみた。小ぶりのかごバッグが夏らしいと思ってくれるかもしれない。
 ピンポーン。昔から変わらない翠我くんの家。
 しばらく待ってみたが、どうやら本日は留守のようだ。
 彼は携帯電話を持っていない。家の電話にかけてから来れば良かったかな。
 仕方がないので近所を散歩してから帰ることにした。
 大きな木がある公園も見てみたけど彼はいなかった。時々妹と遊ぶんだと言っていた公園だったはずだが、今日は残念ながらいなかった。

(夏休み明けに告白すれば良かったかな……)
 付き合い始めてすぐに音信不通になったので、私は不満だった。
(学校はめんどうだけど、翠我くんに会うには学校がないと不便だわ)
 のろのろと歩く。

 長い休みは、まだ始まったばかりだ。

 ◇

 another day また違う日のこと

 スーパーで買い物をしていると、あずささんがいた。
 カートをゆっくり押しながら、あずささんは僕の目の前を通り過ぎてふと立ち止まり、豆腐コーナーで真剣に豆腐を選び始めた。
 無事生きていたことにすごく安心して、豆腐を選ぶあずささんの顔をこっそり見た。
 かわいいなぁ……と、まずそう思った。
 ずっと前に剛の剣道の試合を見たときに着ていた服も素敵だったけど、今日の服もすごく似合ってるなと思った。袖がレースみたいになってる薄い水色のTシャツに、薄紫やピンクのいろんな形の模様がある長いスカートをはいていた。その紫陽花を連想させる色合いに、前に剛と一緒に食べたお菓子を思い出して微笑んだ。
 あずささんは全く気が付かない。これに決めた! と重大な決断をした表情でひとつ豆腐をカートに入れ、次に納豆パックを手に取った。
(納豆食べるのか! あのネバネバを!)
 ひきわり納豆のパックも入れ、またゆっくりとカートを押し始める。
 なんとなく後をついていく形になった。
(これじゃあ、付け回してるみたいだ……)
 気まずくなって意を決して声をかけた。

「あずささんっ」
「ひぇっ」
「……そんなに驚いた……? ふふふ、二回目だ」
 急に話しかけたら、ものすごくびっくりされた。
「……遼介か。……二回目?」
「あずささんに会えたのが、夏休みに入って二回目だって」
「……あぁ、そうだな」
「声かけたの、まずかった?」
 僕が聞くと、あずささんは胸に手を当てながら深呼吸をして、首を横に振った。
 それからなんとなく一緒に買い物をすることになった。
 豆腐に納豆、油揚げ、牛乳、卵、バターと溶けるチーズ。別々の家に住んでいるのに、不思議と買うものは僕とそっくりだった。野菜、お肉、お菓子コーナー……。
「魚は買わないの?」
「今日は肉を買ったから、また今度にする」
 あまりたくさん買うと帰り運ぶの大変になるね、と言うと、あずささんは前に僕が家まで荷物を運んだことを思い出したのだろう。そうだな、と神妙な顔つきになって、手にしていた卵ボーロの袋を棚に戻した。
 今日は椿は家にいる。
 梨枝りえ姉が有給消化のために、休みを取っていたのだ。僕は椿の面倒を見る代わりに姉に買い物を頼んだが、姉は暑いからという理由で逆に僕が買い物することになった。暑い夏の買い物は誰だって辞退する。
「椿ちゃんは、家なのか?」
 えっ? と驚いて目を瞠った。ちょうど僕も椿のことを考えていたからだ。
「うん、家。姉に見てもらってる」
「そうか。小さい子がいると、買い物も大変だな」
「そうなんだよ。背が小さいからさ、気を付けないとアスファルトの熱で熱中症になっちゃうから。油断できないんだ」
 今度はあずささんが目を瞠った。僕は、自分たちが交互に驚いていたのでつい笑ってしまった。
「なぜ笑う」
「えぇ? いや、買い物楽しいなと思って」
 すごくすてきなあずささんと一緒に、隣を歩く。
 自然と笑いが込み上げてくるのが分かった。
「あずささんも、納豆食べるんだね」
「? 食べる……。今日は、辛子和えにしようと思って買った。オクラの」
(オクラの辛子和え⁉)
 今まで作ったこともない(椿が食べないからだ)大人向けなメニューを言われて絶句した。
 確かに、ひきわり納豆と辛子を青物野菜と和えるメニューはある。
「納豆ごはんをもりもり食べる訳じゃないんだね」
 ボソリと呟くと、あずささんはちょっと不思議そうな顔をした。
「食べる日もある」
「食べるのかっ!」

 * * *

 another day2 またまた違う日のこと

「また会った」
「ひぇっ」
「ふふふ、あずささん、結構びっくり屋さんだよね」
「ま、また買い物か……?」
「スーパーに来てるくらいだから、そうなるね」
「わ、私も買い物で……」
「うん、ここスーパーだから、そうだと思ってるよ」
 何度もあずささんと話すうちに、意外と表情豊かだなと思うことが多くなった。
 冷静で、きりっとしていて、背筋をピンと伸ばして颯爽と歩くあずささんだけど、実は頭の中で『向こうのカラス、車が通りそうなのに全然動かないな』などと考えていることもあるって知るようになった。
「今日は夕方なんだね。まあ、僕もなんだけど」
「気が付いたのだが、夏の昼時に、買い物をすると暑いのだ」
「……そ、そりゃそうだよ……」
「今までは買い物はタクシーを使うことがほとんどだったから、意識してなかったんだ」
「買い物に、タクシー?」
 素っ頓狂な声が出た。去年まであずささんはこの街にいなかった。お屋敷?(と言っていた気がする)で使用人?(と言っていた気がする)として家事全般をしていたはずだ。住む世界の違いをまざまざと見せつけられた。
「お、お嬢様……ですね」
「む」
 そんなことはない、使用人と言ったことがあったはずだ、と軽く睨まれた。
 すごい、こういう表情をすることがあるんだ。僕はつい頬が緩んだ。笑ったことに対してまた睨まれた。
「ごめんね。かわいいから、つい、笑っちゃった」
「!!!」
 あずささんは一瞬固まった。……あれ、変なこと言ったかな。
「どうしたの?」
「……何も」
 ふい、と顔を背けられて、また一緒に歩きだした。
 今日は夕方に買い物をして、会計を終えたレジ台の辺りでばったり出くわしたのだ。

 ちょっと勇気を出して誘ってみる。
「あずささん、お茶一杯だけ、飲んでいかない?」
 あずささんが不思議そうに僕を見た。
「どうやってだ? お会計はもう終わってしまったぞ」
「すぐそこで。休憩コーナーに無料のお茶が飲めるところ、あるんだ」
「そういう場所があるのか」
「行ったことない?」
「ない」
 じゃあ行ってみようか、と言って促した。そうだった、遅くなるとお兄さんに怒られてしまうかもしれないと思って、慌てて付け足す。
「一杯だけ飲んで、そしたら帰ろう。遅くならないように」
「……ありがとう」
 あずささんがお茶を断らなかった。そして、たぶん、僕が遅くならないようにといった本心に気が付いてくれたのだろうと思った。


「どうしたら忘れ物をしないようにできるか?」
「うん」
 スーパーの出入口付近にこじんまりと設置されている休憩コーナーは割と賑わっていた。夏は暑いからなかなか外に出たくないのかな。おじいちゃんがじっと俯いて座っていたり、おばさん達がお茶を飲みながらガハハとおしゃべりしているテーブルもあった。
 ズズズ……と冷たいほうじ茶を啜って、僕はアドバイスを求めてみた。実は夏休み、夏期講習を予定していたのだが、初日は存在をすっぽりと忘れてしまい大目玉を食らったのだ。主に、先生と姉たちから。
「夏期講習の一日目を忘れてしまった件のことを言っているのか?」
 あずささんが僕の質問のきっかけとなる出来事をズバリと指摘した。
「まぁ、それが最近の。でも宿題とか、勉強内容とかも……」
「確かにそうかもな」
「僕、本当に昔からすごく忘れ物をするんだよね。僕も困っててさ。あずささんはしっかりしてるから、何かいい方法があれば、真似してみようと思って」
 あれこれと話をする。
 お茶が減らなければいいのに、と無意識にゆっくり飲んでしまう。
 買い物の食材のことも気になる。外よりは涼しい店内だけど、ずっと放置するのは衛生的に良くない。
「遼介は」
「うん」
「先のことをたくさん考えているな」
「先のこと?」
「椿ちゃんのこと、高校受験のこと、この後家に帰ってからすべきこと」
 そりゃあ考える。椿が年長になる頃にはどう接したらいいかとか、受験に絡む自分の努力不足の諸々とか。毎日たくさんのやるべきことを考える。
「先を考えすぎて、今がおろそかになっているのかもしれないな」
 そんなふうに、考えたことはなかった。
「あずささんは先のことを考えたことはないの?」
「私は……少し先は、例えば食事の支度の時なら効率を考える。段取りを考える。それから動く。……だが、未来については考えたことはない」
「ないんだ」
「うん。聞かれなかったから」
 ……聞かれなかったから? 僕が眉を潜めたのを見て、あずささんが困った顔になった。
「私は、未来をどうしたいのか聞かれず、親の望む未来がもう既に決められていたから。言われた通りにやるべきことをする、それだけだったから。……えぇと、うまく言えないな。私が私の気持ちを言っても何も変わらないから、考えるのをやめた。毎日を淡々と生きて、生きて、繰り返して、それだけだ」
「……」
 お茶を飲み干してしまった。タイムアウトだ。
 あずささんの口にした言葉は、ちょっと抽象的で分かりにくかった。
「今、目の前をおろそかしないようにすればいいってことかな」
「……まぁ、そんなところだ」
「今を大事にしようってことか」
「そうだな」
 あずささんがお兄さんに怒られる前に帰らなくては。
「帰ろう」

 スーパーからお互いの家までは同じ方向だ。西日が照らす細い道を、並んで歩く。
 買い物の袋が歩く度にガサガサ音を立てた。
「確かに、僕は今やっていることをしながら、別のことを考えたり動いたりしちゃうな」
「同時並行できるのは、すごいことだ」
 どんな些細なこともフォローしてくれる。優しいあずささん。
「一度にできることは一つなんだよね、やっぱりさ」
「……なんとも言えない」
「正直だね、あずささんは。あぁ、何でもそつなく上手にできる人もいるもんね。
 ……そうだなぁ、今思うことは、僕はあずささんが無事なのが、すごく嬉しい」
 あずささんがこちらを振り向いた。
「またそんな大げさな」
「ううん、お兄さんのこと、僕はすごく心配してるんだ。痛いことをするのは絶対に良くないって思うから。……だから」
「うん」
「だから」
 今、伝えなくてはいけないことがあって、喉が乾いていたので少し咳をした。
「何かあったら」
 僕はずっとずっと考えていたことを口に出した。
「何もなくてもいいや、うちに来て」
 あずささんが少し目を瞠って僕を見た。椿も遊びたがってるし、と付け足してしまったのは、何でもいいからうちに来る口実がほしかったせいかもしれない。

 あずささんはゆっくりと瞬きをして、僅かにこくんと頷いた。

 ◇

 夏休み、夏期講習で翠我くんに会えると思ったのに彼は来なかった。
 たかだか勉強のためだけに、ほんの数時間ちらっと会えたらいいなくらいの気持ちだったのに、おしゃれをしてしまう自分を呪った。
 やっぱり彼は私と付き合っている自覚がないんだ……。
 彼のあの笑顔がすごく好きだ。
 決してクラスの中心的存在になっている訳でもないし、積極的に自分からグイグイとお話をするタイプでもないんだけれど。他の男子と比べて粗雑じゃないところ、困っている人をそっと助けるような優しいところが好きだ。

 ある日、私はアイスを買おうと思ってスーパーにやってきた。
 来なければよかったと本気で自分を呪った。
 見てしまった。彼が、あの女と一緒におしゃべりしているところを。
 デートという雰囲気ではないのは遠くからでもよく分かった。買い物袋をそれぞれ持っているから。野菜の形に不格好に歪んでいるビニール袋は、デートにはふさわしくない。
 あんな仏頂面の、ニコリともしない女のどこがいいのだろう。
 嫉妬で心の中がゾワゾワする。
 彼が笑っていた。最近はあまり見なくなった、昔のような天真爛漫な笑顔で。
 小学生の頃の、まだ彼が母の死を知らなかった頃のような。


(つづく)

(第一話はこちらから)

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