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【紫陽花と太陽・上】第八話 ためいき

遼介りょうすけは、お茶を淹れるのが上手だな」
 ちょっと前も学食で見た、湯のみの糸底に手を添えて静かに茶を口にした後、あずさがぽつりと呟いた。俺は淹れるのに上手下手があるなんて考えもしなかったが、ほめられた遼介はとても嬉しそうな顔をした。
 試験が終わった後、俺たちは遼介の家で文字通り茶を飲んだ。
 茶色の香ばしい匂いがする、なじみの茶だった。
 姉二人と小さな子供がいる、あらゆるものに囲まれたこの家(目の前のテーブルには書類が積み上がり、小さな黒猫の置物、いちごの模様のペン、使い込まれた消しゴム、セロテープ台、ハンドクリーム、緑とピンクの折り紙二枚、使用済みのマグカップなどが散在している)に、あずさは驚いていたようだった。
「色んなものがあるな」
「そうなんだよ。ほとんど姉とか椿つばきのなんだよね」
 あずさは目を見開きキョロキョロと雑然としたリビングを眺めていた。
 リビングの台所側に寄せてあるダイニングテーブルには、あらゆるものと、俺たちが今飲んでいる湯のみと急須が置かれていた。
「お前が遼介んちに上がるとは思わなかった」
 茶を啜りながら俺は言った。あずさはもっと兄に束縛されているかと思っていたのだ。
「まぁ、遼介にあれだけ誘われたら、断れねぇか」
「今日は……今の時間は、たぶん兄は家にいないと思うから……」
 兄が不在であれば自由に行動できる、という意味合いに取れた。
「来てくれて嬉しいよ」
 今日の遼介は引き下がらなかったと思う。兄による暴力沙汰の一件以後、こいつはかなりあずさを心配していた。下駄箱であずさを待つと言ったときのこいつの目は真剣だった。
 三人でまた茶を啜り、静かな時間が過ぎた。

 しばらくしてあずさはカウンターに置いてある女性の写真を眺めながら、あの女性は母親かと尋ねた。
「そうだよー、僕の母さん。二年くらい前にね、死んじゃったんだ」
「……そうか」
「先月が命日の月だったから、写真、見えるとこに置いたんだ。そういえばお仏壇にまだ戻してないなぁ。すっかり忘れてたよ」
「……遼介にそっくりだな」
「そう?」
 遼介がさらっと事実を述べた。あずさはまじまじと写真の女性を見つめた。優しそうで、穏やかで、病人とは思えないほど柔らかい笑顔をしている(撮影したのはたしか入院が決まる直前だったはずだ)。眉毛が太いのも、遼介にそっくりだった。
「あずささんのお母さんやお父さんは、どんな人?」
 あずさのこと。今年の四月に転校してきて真面目で成績優秀。怖い兄がいる。DVに近いことをされている。それだけは知っているが、もっと個人的なことを俺たちはあまりよく知らない。昔のこと、どんなことに興味があり、普段何をしているのか。
 実際あずさは何も話さない謎めいたクラスメイトだった。
「……そうだな。私の父は、茶道家だった」
 サドウカ……? 聞きなれない言葉に一瞬つまったが、お茶の専門職のことだと分かった。遼介がそれ何? と聞く。
「お茶を究め、人に教え、伝えていく仕事か」
「へぇー、そういう仕事があるんだねぇ」
 遼介は興味津々だ。
「茶道部みたいに、お茶を淹れるの?」
「点てる」
「お茶と一緒に、お菓子、食べる?」
「食べる」
「へぇーっ、どんなお菓子が出るの?」
 話がどんどんずれていっているような気がする。俺は「茶道家」の言葉が気になった。では、今は?
 遼介は質問をやめない。聞きすぎだろと思うが、あずさは困った顔もせずひとつひとつ丁寧に答えている。
「……それに、父と母はもう亡くなってしまったから、家でお茶を点てることはもうないな」
(亡くなってしまった……)
 俺も遼介も黙ってしまった。
 あずさはそんな俺たちを見て、少し困った表情を浮かべ、事故で、と付け足した。
 自然と室内に沈黙が落ちた。
 さすがの遼介も、それ以上はあずさに質問をしなかった。

「お茶、冷たくなっちゃったね」
 新しいお茶を淹れるのだろう、遼介はよいしょと立ち上がり台所に歩いて行った。
「あずささん。それは、とても、つらかったね」
 湯を沸かし急須にコポコポと熱い湯を入れながら、遼介があずさに言った。
 とても心が込もった、親と死別した経験があるからこその言い方だった。

 ◇

 両親が死んだのは半年ほど前になるだろうか。正直よく覚えていない。
 今とは別の中学校に、授業中にも関わらず百合さんが呼びに来た。その後タクシーで病院に行き、兄と両親の遺体が到着するのを待った。
 出張中の事故だった。
 遺体の損傷が激しいとかで、両親の身体が遺族が立ち会える状態に修復されるまでかなりの時間待ち続けた。百合さんはずっと私のそばにいて、時折、水分を摂るよう促され何か液体を飲んだ気がする。味は覚えていない。

 百合さんは背が低い高齢の女性だ。柔らかい真っ白な髪を後ろでゆるく編み、黒のハイネックの服を着衣の下に必ず着る。穏やかな性格で怒ったのを見たことがない。
 いつからか、ずっと家にいた。父の秘書のような役目をしていたと思う。家政婦のようなこともしていたと思う。屋敷には使用人が何人かいて、掃除や食事の支度を私もしていたが、最初に料理を教えてくれたのは百合さんだった。掃除の極意を教えてくれたのも百合さんだ。両親の死後、百合さんは兄の仕事を手伝ってくれている。私のことをとても気にかけてくれ、一般常識に疎い私にたくさんのことを教えてくれるのだ。

(上靴、明日買いに行けるといいのだが……)
 遼介の家を出てまっすぐ帰宅し、私は今、台所の冷蔵庫の隣にある花台(本来は花瓶や水盤を飾るための台なのだが、この家では電話を置いて使っている)の前にいる。
 室内の調度にそぐわないこの電化製品の、一番を押せば、百合さんがすぐ飛んでくることは知っている。だからこそ、たかだか買い物のためだけに呼ぶことに気がひけるのだった。

「あずさ様、どうされましたか」
 意を決してボタンを押すと一コールでいつもの百合さんの声が受話器から聞こえて来た。
 一体この人は、いつも電話の前に座っているのだろうか?(私は携帯電話の存在を知らなかった)私や兄からの連絡をずっと待っているのだろうか? いつも不思議でならない。
「あずさ様、今はお一人ですか? 何かお持ちしましょうか?」
「あ……ええと、買い物に……」
「お買い物ですか。ではすぐにそちらに……」
「ええと、あの、明日、できればお願いしたいのですが……」
「はい、明日ですね。承知いたしました」
 すぐにでもこちらに来そうな勢いの百合さんに、私はいつも閉口してしまう。
「何をお買い求めになりますか? 明日、お迎えにあがってからお伺いした方がよろしいでしょうかね」
 百合さんとの買い物はいつもタクシーだ。
 徒歩でも電車でもかまわないといつも言うのだが、百合さんは淡々と『残念ながら、鋭司えいじ様のご要望で公共交通機関は控えるようにと言われているのです』と答えるのだった。
 明日は九時半に迎えに来ると言う。
 兄にはまだ上靴のことは話していない。
 最近、兄と話すことを避けてしまっているせいか、靴のことを考えるだけで気分が滅入ってしまう。私はため息をついた。

 ◇

 もうすぐ夏休みが始まる。という一週間ほど前、僕はひいらぎさんに呼ばれた。
(何だろう……? この前何か相談事でもあったのかな)
 いつだったか、僕があずささんを待つために玄関にいた時に柊さんがやってきて、一緒にちょっとお話をしたのを思い出した。
 待ち合わせ場所はいつもあずささんと一緒に昼食を食べる中庭の茶室の近くだった。
「柊さん、お待たせ」
「来てくれてありがとう! 来ないかと思ったぁー」
「うん? 突然だったからびっくりしたけど」
 柊さんは始終にこにこしていた。左手首におしゃれな飾り紐をつけている。あれは校則で大丈夫な持ち物なんだろうか? と、変なところが気になった。
 柊さんは、ちょっとだけ赤い顔をしてしばらくもじもじしていた。
翠我すいがくん。……私、聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
「うん……」
 そう言ったきり、柊さんは俯いた。
 待つ。
 だいぶ待った。
 待つのは慣れている。あずささんも、椿も、話すスピードはとてもゆっくりだから。
「翠我くん、私のこと、嫌い……かな?」
「えっ? 嫌いじゃないよ?」
「ほんとっ? 嬉しい!」
 柊さんはぱぁっと笑顔になった。
 それから、ぐっと僕に近づいてきてなんだかいろんなことを聞かれた。
(少しだけ一緒に帰れるのかどうか、少しだけいっぱい話をしてもいいかどうか、下の名前で呼んでいいかどうか)
 他にも聞かれたような気がするが忘れてしまった。
 もっとちゃんと覚えておくべきだったと、僕は後で後悔することになる。
 それが、どうやら柊さん的には、付き合い始めたと言うことになったらしかった。

 ◇

「お前、いつのまに付き合い始めたんだ?」
「え?」
 紙パックのカルピスを美味しそうに飲んでいた遼介に、俺は聞いた。ものすごく驚いた顔をしていた。
「どういうこと?」
「どうって、柊の奴と付き合うようになったんだろ? 噂になってるぞ」
「そうなの?」
 遼介の目が点になる。ついでに俺の目も点になる。
 俺はキョトンとしている遼介を見やり、深くため息をついた。
「柊ってあれだろ、お前に何度か告白した奴だろ?」
「そうだよ。この前呼ばれて、今より少しだけ一緒に話とかしたいって言われた」
「話」
「クラスが違うから、お話もどれくらいできるか分からないけど……」
 俺はそんな遼介を見て目を細める。再び、ため息をついた。
「一緒に帰ろうとか、言われたんじゃねーのか?」
「そうそう。帰るのも、少しだけ回数を増やしてって言われた」
「で、遼介は了解したと」
「うーん……した、のかな。できるか分かんないけどって言ったと思うんだけどな」
 柊の家は俺たちの家とは方向が違う。学校からお互いの家に別れるところまでしか、一緒には帰れないはずだ。
 俺は少し柊にイラついた。小学校が同じな上に何度も告白さえしているのだ。遼介が家のことで忙殺されているのを知っているはずなのに、なんでまた同じことを要求するのか。
「なんだろうね。柊さんはなんで付き合ってるって言うんだろうね」
 俺は苦笑いする。
「どうすれば柊さんの言う『付き合っている』ってことになるのかはよく分からないけど……。もっとお話したら分かることもあるかもしれないし……。ちょっと、様子を見てみようかな」
「ふぅん」
 俺はコーヒーを飲み干し、離れたゴミ箱に投げ入れた。
 パックはきれいに弧を描いて、しっかりとゴミ箱に収まった。
 太い眉毛を寄せて遼介がしばらくの間ウンウンと唸る。
つよし、付き合うって、どういうことだと思う?」
 まっすぐな視線で遼介は俺に問う。
「うーん、一緒に話したり、一緒に帰ったり? 一緒に『何か』するんじゃねぇのか」
「そうなのか」
「たぶん」
 俺だって誰かと付き合ったことがないから分からない。
 柊が何度も(おそらく三度目だ)遼介に告白をするということは、まだ諦めきれてないということだ。
「じゃあ、僕とあずささんは、付き合ってることになるのかな?」
 ギョッとして遼介を見た。
 困った顔で、だって一緒に色々してるよ? と呟いた。嘘ではない。確かに当てはまる。
「気持ちが大事なんじゃね?」
「気持ちって?」
「お互いが、お互いを好きで、切磋琢磨しつつお互いを支え合うとか」
「セッサタクマ」
「難しく言ったな。好きだから、一緒にいる。好きだから、相手を思いやる。お互いに」
「ふぅん」
「……俺だって、よく分からねぇんだよ」
「難しいなぁ」
「そうな」
 中学二年生。小さな子供でもない、大人でもない、狭間の年齢。
 俺たちはやることが山積みだ。勉強に遊び、部活、交友関係。……遼介は何かを迫られ、何かを捨てた。日常はどんどん進んでいく。
 はぁ、と遼介がため息をこぼす。
「分かんないね」
「様子見だな」
「それしかないか」
 俺もため息をついてふっと見上げた。
 透き通るような青空と少しの雲があった。

 ◇

 椿の迎えの時間が迫っている。
 柊さんの噂は気になっていたけど(クラスのいろんな人からいろんなことを聞かれたのにはびっくりした)、僕は椿を迎えに保育園に向かわなくてはならない。
 本当に、どうして僕はいつも時間に追われているのだろう。迎えの時間をもっと遅くすることはできないんだろうか。
 今日こそ買い物をしないといけない。姉が二人もいるのだからどっちかに頼めたら良かった。でも。朝、また椿のぐずぐずがあって、着替えとか床の食べこぼしとかの掃除をしていたら姉たちの出勤の時間になってしまった。
「ごめん、遼介。私たちもう出なくちゃ」
「うん、分かった」
「お弁当ありがとう。行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
 頼めなかった。姉たちだって仕事で忙しいんだって分かってる。
 母さんが死んでから、いや、死ぬ前の入院で母さんがずっと家からいなくなってから、僕たちの家は毎日必死だ。
 もう少しで夏休みが始まる。
 夏期集中講座は長い休みの中でかろうじて学校に通える期間だ。
 その期間だけは椿のことを姉たちにお願いすることになっていた。
 炎天下の中走ったので頭から背中から汗が吹き出た。……暑い、暑すぎる。
(あずささんと剛は、やっぱり頭すごくいいんだな……)
 先日、テストの答案用紙が返ってきた。どれもこれも、僕の点数は情けない数字ばかりだった。字が汚くて読めず、そのせいで不正解のところまであった。
「はぁ……」
 本日何度目かのため息。テスト結果では、姉たちにこっぴどく叱られた。
 いつ勉強する時間が取れるのか。……そもそも勉強嫌いだし。
 宿題は、いつからかあずささんといつも一緒にやるようになっていた。プリントの場合、家に持ち帰ると存在を忘れてしまうので、対策として学校で仕上げてしまうことになったのだ。
「ここの文章は、途中にwhatがあるだろう? これは説明をしてくれるためのwhatだ」
「なに、とは訳さないんだったよね」
「そうだ。手前の言葉を説明してくれる、すごく役立つwhatだ」
 優しくて、丁寧で、僕が理解できるまで辛抱強く待ってくれる。あずささんの声は透明で聞きやすい。剛みたいに乱暴な言葉遣いもしない。優しいしゃべり方だ。
 一緒に勉強をして、一緒にお弁当を食べて、一緒に帰ることもある。
 でもこれは、付き合っているとは言わないらしい。たぶん。
 今あずささんと一緒にしていることを、今度から柊さんと一緒にするのだろうか?
 想像してみる。どれも想像することが難しかった。
(……でも、そうしたら、あずささんは一人になる)
 僕があずささんからしてもらったことのお礼をしていないのに、僕はどうして柊さんと一緒にいろんなことをしなくちゃいけないんだろう。
 鞄からタオルを取り出し、園の玄関でピンポンを押した。待つ間ガシガシと頭を拭いてため息を付きそうになるのをぐっと飲み込む。
「はーい! あっ、椿ちゃんのお兄ちゃん! お迎えお疲れ様ー‼︎」
「お疲れ様です」
「今、椿ちゃん支度していますので、呼んできますねー!」

 夏休み。
 あずささんはずっと『あの家』にいることになる。
 痛いことを平気でするお兄さんがいる『あの家』に。

 僕は心がギュッと鷲掴みにされるような感覚になった。
 ひどく不安で、あずささんと二学期また会えるのか心配で、涙が出そうになった。


(つづく)

(第一話はこちらから)

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