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ホンモノ

2024.08.18
ぺぎんの日記#135
「ホンモノ」


テレビで昼のニュースを見ながら、何が本物で何がそうじゃないのか、分からなくなるときがある。

交通死亡事故のニュース。日本の、私の知らない街で誰かが死んだ。
これは多分、偽物。

2012年の狭山市で、女子中学生が学校のプールに金魚を放った。
これは多分、本物。昨日観た「そうして私たちはプールに金魚を、」の内容も含めて。

フィクションすらも本物だと信じようとするくせに、ノンフィクションは現実味を帯びない。戦争っていうのが何で、交通事故っていうのが何で、ヤングケアラーっていうのが何で、ブラック企業っていうのが何なのか。

知らない世界は、偽物の世界。

誰がフィクションと決めたのだろう。誰がノンフィクションと決めたのだろう。この世界を見ているのは私なのだから、私が決めたっていいだろう。

私が知らない世界までも本物と認めてしまったら、その重圧に押しつぶされてしまいそうで、だから私は、ノンフィクションをフィクションにし、フィクションをノンフィクションにする。そこに生きたはずの人々を数字で扱い、存在すらしなかった人々の生き様に涙を流す。

都合のいい世界だけを見ているつもりはない。私だって私なりに、向き合いたくない世界とだって向き合っている。向き合いたいから、向き合う以前に傷つきたくない。

今までフィクションだった世界をノンフィクションにするために、他方のフィクションからは目をそらす。いつの間にか今までノンフィクションだった世界が、他方のフィクションに向き合うためにフィクションに退行している場合だってある。

私のノンフィクションから目を逸らしながら、世界のノンフィクションとは向き合えと要求してくる大人。うっせえ馬鹿。

私は、何を本物だと思って、何を偽物だと思って、何を根拠に生きてるんだろう。

この記事の字数が800文字に達するまで自分の感情と向き合えば、なにか見えてくるだろうと思って書いている文章。あ、この文は字数稼ぎ。自分を誤魔化すための。

ひねり出した文章の、何が私の本音で、何が作り物の考えか。

作り物だからといってフィクションか。
本音だからといってノンフィクションか。

タイトルを「ホンモノ」とカタカナ表記にしてみたら、なんか深そうな感じになったからそうした。理由はそれだけ。本当にそれだけ?

見えないものがある。見ようとしないものがある。見えることすら知らないものがある。見たのに知らぬふりするものがある。

ホンモノ。そんなもの、見つけたくないような気もする。

うっせえ馬鹿。

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