あさっての花、土曜日の月。(上)

ときどき、思い出す景色がある。

4歳のわたしは、さらさらした肌触りのパジャマで、夜の砂浜に座っていて、蒼い夜空には、マロンクリーム色の月。
海は月の光を気まぐれに映す。
風が吹き、砂粒たちがほんの少しだけ居場所を変える。
聖母の心音みたいな、波の音。
そして隣には、あの少年がいる。

もう、15年以上も前の景色だ。

ある夜、目が覚めた。
ママもグランマも眠っている静かな夜。
起きているのはわたしだけ。
大人が寝ていて、子供が起きている。わたしはなんだか不思議な気持ちだった。その不思議な気持ちのまま、私は窓の外を眺める。
ガラスの向こうには、月と海。絵本を見るように、窓の外をぼーっと眺める。
しばらくそうしていると、動いているものが見えた。

ひとりの少年が砂浜で遊んでいる。
彼は、波をすくい上げては、月に向かって何度も水を掛ける。誰だろう。知らない男の子だなぁ。ぼんやりと、わたしは思った。
起き上がって靴を履き、ぬいぐるみのうさぎを抱え、部屋を出て、砂浜まで歩く。
まるで歯磨きするみたいに、無意識に動いていたのを覚えている。

少年は、相変わらず水を月に向かって掛けている。
水しぶきには月の光が宿り、星々が彼の周りに浮いているように見えた。

「ねぇ、星みたいでしょ。」

少年は、そばに来たわたしを見ずにつぶやいて、また水をすくい上げる。
宙で輝く星の粒を見上げ、わたしは、うんと頷いた。少年は振り向いて、満足そうに眼と口で笑う。

「ひとりでなにしてるの」
私は訊く。

「さぁ、なにしてるんでしょうねぇ?」
少年はおどけて答える。

私は、子供だからって馬鹿にされたように感じて、

「んもう!それを訊いてるの!」
ママたちが起きないくらいに、小声で声を荒らげた。

「んもう、、怒りっぽいなぁ。」
彼は笑い、ぞぶんざぶと歩いて私のそばへ来る。
彼の年齢は今思えば14歳くらいだろうか。当時のわたしからは、大人のようにも子供のようにも見えた。

「何してたの」

私は腕を組んでもう一度訊く。

「うーん。なんて言えばいいんだろ。まあ、なんていうか、星を作って見てた?そんな感じ。だって、見えたでしょ?星。」

たしかに、水の粒は星々に見えた。私は少し考えて、腕を組んでうんすんうんすんと何度も頷いた。彼は笑い、白い歯が夜に光る。

「じゃあこんな夜中に君は何してるの?」


今度は彼が、いたずらっぽい笑顔で私に質問した。
少し考えて、今日ママが読んでくれた絵本の中で知ったことを、さも当然のことのように私は彼に話した。

「お姫様はきれいな月が出ていると眺めたくなるものなの。」

「へぇ、すごい。」

「そうなの。そういうものなの。」

「そっか、それにしてもさ、きれいなお姫様だね、星たちが恥ずかしくなるくらいにきれいなお姫様だよ。」

にんまりした笑顔でそう言って、金色の髪の毛をかきあげ、彼は海の方を見た。青い瞳が輝く海をひっそりと映す。私はなんだかすごく照れてしまって、

「この子はキース。うさぎなの。」

と、ぬいぐるみを彼に見せた。

「はじめましてキース、こんな夜更けに起きてるなんて、さては大人うさぎだね。」

わたしは、うんすんうんと何度も頷く。綺麗なお姫様だと男の人に言われ、むずむずと嬉しい気持ちだったのを覚えている。
どちらからともなく浜辺に座る。

「オレンジの花の香りがするね。」

しばらくして彼は言う。わたしは目をつぶって匂いを嗅ぐ。
家の裏にはオレンジの木があった。確かに、控えめで爽やかで甘い香りがする。わたしは、うんすんすんと頷いた。

「ねぇ、寂しくはない?」

波音と同じくらい静かな声で、突然彼は訊いた。そしてわたしは答えた。
でもあの時、寂しいという言葉の意味をどこまで理解していたかはわからない。

「寂しい?うーんとねぇ、グランマはいつも家に居てとっても美味しいクッキーとラズベリーパイを焼いてくれるの。クッキーはね、ペギーさんとこのミルクとグランマのクッキーを一緒に食べるのがわたしのお気に入りなの。流行ってるの。
そしてね、ママは、日が沈む前には帰ってきて、それからマッシュドポテトを作ってくれる。少しだけベーコンが入っているのが好きなの。
お風呂からあがったあとは体を拭いてくれて、髪を乾かしてくれる。寝る前は本を読んでくれる。
あと朝はね、ママがパンケーキとスクランブルエッグをたくさん焼いてくれて、そしてね、いっつも食べきれない!それでね、グランマがそれでね、ママにね作り過ぎだって叱ってね、それで二人はいーっつも喧嘩をするんだけど、わたしがいつも止めるんだよ。子供なのよね、ふたりとも。朝をごきげんにすればさ、1日はごきげんなのに。そう思わない?」

わたしが話し終わると、彼は微笑んで何度かゆっくりと頷いた。

「いいなぁ、僕もベーコンが入ったマッシュドポテト、けっこう好きだな。メイプルがかかってると、さらに好きだな。」

「え?メイプルをかけるの?おえっ!美味しくなさそう!普通に食べるほうが絶対においしいよ!ママはマッシュドポテトがうまいの。お兄ちゃんは、マッシュドポテト作ってくれる人はいる?ママやグランマはいる?」わたしは訊く。

「もちろんいるよ。でも、いまはひとり。うん、でも寂しくはないよ。僕は、見守ることしかできないけど、逆を言えば見守ることだけは許されてるから。」

時々、大人の人の話はわけがわからない時があった。知らない言葉があったり、早口だったり。この時も、彼の言っている意味はわからなかった。でもわたしはお姫様だから、と思って、理解したように深く頷く。

「ねぇ、夜の空は何色だと思う?」

彼はまた突然訊いて、わたしはすぐに答えた。

「黒!うーん黒猫みたいな黒。」

「そっか。黒猫みたいな黒か。よし、じゃあ、」

彼はそう言って、砂に背を預け空を仰いだ。わたしも砂浜にぱすんと倒れてあお向けになる。

ちょうど、羽ペンで白インクの線を突然誰かがひいたみたいに、夜空に白い線がいくつかすうっと流れた。

「さあ、何色に見える?」

「黒!黒猫の黒!」

「じゃあ、月のまわりは??」

「うーんとねぇ、月の周りもねぇ、えっとねぇ、くろ、あ、違う、ブルー、、あ!ブルーベリーパイ!」

「おっ、いいねぇ、ブルーベリーパイ大好きだなぁ。」

「わたしも大好きっ!ジャムも!」

「じゃあ海の方の空は?」

「うーんとねぇ、海の方はねぇ、あ、なんかね、すこし黄色っぽい、マーマレードとブルーベリージャムが混ざったような色。黒じゃ、ない。」

「おっ、じゃあ星は何色?」

「星は金色だよ。」

「金色だけ?よく見てみてよ。」

わたしは、星空は絨毯の模様のように思っていた。いつも同じ柄で全部同じ色。絵本でも星は同じ色で描かれている。
でもこの時わたしは初めて、星を模様ではなく、ひとつひとつとして見ていった。星々はよく見ると絵本みたいに金色じゃなかった。

「あ!あ!あ!赤い星がある!あと銀色と!金色!あ、あれは青!あ、雲みたいな星もある!」


そのうち、さっきまで見ていた黒と金色の夜空は、本当は様々な色が混ざり合う鮮やかなものなのだと、その時のわたしは気づいた。

その瞬間、様々に夜空が色づき、言い表せないような美しさで眼前に迫ってきた。わたしはただ、空を見上げ、口を開け、眼を開けていた。


「ねぇ、きっと、この先いろんなことが、たくさん起こるよ。夜だと思っても、ほんとは昼よりもたくさんの色でとっても綺麗なのかもしれないよ。
そして星と同じように、花畑の花も、本当はひとつひとつ少しづつ形も色も違んだよ。

眼を開けておくんだよ。そしたら、もっともっとたくさんの美しいものに出会う。ここはそういう場所だからね。

そしてね、憶えておいて。
あさって花が咲いたり、
土曜日に月が輝いたり、
昨日風が吹くみたいに、
来週も、9年後も、その先も、
ずっと見守っているから。」

鮮やかな夜空が、だんだんぼんやり見えなくなってきた。まぶたがホットミルクのチョコレートみたいにとろけていく。薄眼で彼を見ると、温かい眼差しでわたしを見つめていた。まぶたは、閉じる。





カモメの鳴き声がする。
眼を開けると、白い天井が見えた。
白いカーテンが風にふんわり膨らんで、わたしはゆっくりと起き、あたりを見回す。自分の部屋。窓の外には青い空と、海。

海をぼんやりと見ながら、なんだ、夢だったのか、とがっかりしたのを覚えている。彼の声も、話したこともちゃんと覚えている。でも、全部夢だった。また会いたいと、思ったのに。その時わたしは、ほんの少し寂しくなった。





私は今、カレッジに在学している。ハイスクールの時から国内外へひとり旅に行くのが好きで、今でもそれは続いている。旅先では、友達や仲間がたくさんできて、彼や彼女たちとたくさん遊んだ。スペインの太陽みたいな恋もしたし、ギリシアの海風みたいな恋もした。

世界を旅して、自分の家族のことを知らないことに気づいた。父は、母と離婚してしばらくして亡くなったらしいけど、会ったこともないし、最初からいなかったから、寂しいと感じたことはなかった。けれど、旅先でホームステイの家族と暮らすうち、父のことをどうしても知りたくなった。

旅先から帰り、リビングにバックパックを置いて、母に訊いた。
お父さんってどこに住んでたの?って。
すると母は、ノートを持ってきて何かをメモした。そして、あなたのもうひとりのグランマよ。そう言ってメモをくれて、わたしの肩を少し撫でた。

メモに書いてあった住所は、ここからいくつも州をまたいだ大陸の反対側。メイプルシロップのラベルに、その州の名前を見たことがあるぐらいで、いままでその州のことを特に気にしたこともなかった。
そしてまさかそこで父が生まれていたなんて、考えてもみなかった場所だ。

わたしは母に礼を言って立ち上がり、
今から行ってみる、と言った。
母は驚いた顔をして、“今”って言った?と聞き直す。
わたしは玄関で振り向いて、眉を上げ、おおげさに頷いてみせた。
母は天井を見ながら、お手上げね、という顔をした。



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