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【52歳から自分らしく生きるために】過去を一度受け止めたら、其処に留まり続けず、あとは「今」を真剣に考える

アラフィフ責任世代のあなたへ、

今週も1週間お疲れ様でした。

私と同じアラフィフ世代のあなたは、30代、40代の頃、こんな働き方をしていませんでしたか?

  • 海外出張ばかりで、奥さんや子供達との大切なイベントの時に家に居られない生活が何年も続いた。

  • 出世のために会社から高い評価を受けたくて、家庭よりも仕事を優先し、朝から深夜まで仕事漬け。週末以外、家族とまともに会話する時間が無かった。

  • 会社で終わらなかった仕事を自宅に持ち帰って、夜遅くまで一人部屋に籠ってサービス残業をしたり、休日出勤して週末の家族との時間を犠牲にしていた。

今でこそ、やるべき仕事が少なすぎて不安になるような日々を送っていますが、私も今の会社の若手・中堅社員と同じ位の年齢の頃は、同じように忙しい毎日でした。

色々と問題のある高校生の娘の性格から過去を振り返る

今朝、妻と朝食を食べながら、スマホ依存で大の勉強嫌いの我が家の高校生の娘のことが話題になり、

「一体何故こんな風に育ってしまったんだろうね。」

と、しみじみとこれまでの十数年を振り返っていました。

この手の話になると、必ず妻から出てくる言葉は、

「小さい頃、ほとんど私が一人で育てたから、こんな子になってしまったんだね。私の育て方が悪かったんだよね。」

という自己否定の言葉です。

そして、それとセットで出てくるのが、

「○○は、父親が家に居なかったから、こんな風になってしまった。」

「私はあの頃、パパにも実家の両親にも、誰にも助けて貰えなくて凄く辛かった。

という言葉で、それを口から発すると決まって、妻は泣き出してしまいます。

家族と過ごす時間の無かった私の30代~40代

私が家族とあまり一緒に過ごすことが出来なかった時期は、今から16年前に遡ります。

社費留学でアメリカMBA留学から帰国して1年後、私は海外事業を行う部署に異動となりました。

着任後程なく、アフリカのザンビアという国で実施していたあるプロジェクトのチームメンバーとして、現地に約50日間の予定で海外出張を命じられました。

これが皮切りとなり、その後、東南アジア、中央アジア、南アジア、東アジア、中米、大洋州の国々のプロジェクトに参加し、毎年、1年のうちの延べ2か月ほどは海外出張をする生活を送っていました。

一度の出張期間はおよそ2~3週間。こんな出張が年間3~4回ありました。

この間、例え海外出張していない間も、本社勤務だった私は日々深夜まで残業続きで、今考えると、週末のわずかな時間を妻と幼い子供達と過ごすだけで、平日は起きている間はほぼ仕事漬けでした。

この頃は、私もまだ30代と若かったこともあり、会社の中でもごく限られた人数の社員しか携わることができない海外を相手とした仕事をやらせてもらっているという誇りと、当時の同世代の人間のご多分に漏れず、実績を残して早く出世したいという野心もあったため、肉体的にも精神的にも過酷な状況でも耐えることが出来ていました。

ただ、お世辞にも、家族との生活を一番に考えていたとは言えませんでした。

「自分は治安や衛生状態の悪い発展途上国で、こんな過酷な状況下で重要な仕事を頑張っているんだ。」

という、自己弁護をしていたように思います。

当時、妻も私のことを「応援している」と言ってくれて、幼い娘達には、

「パパは外国の人達のために、とても大変な仕事をしているんだよ。だから、寂しくても頑張ってパパの帰りを待っていようね。」

と言い聞かせていたそうです。

そんな生活が5年続いた後、2011年の東日本大震災がきっかけで会社が大きなダメージを受け、私が所属していた海外向けのコンサルティング事業担当部署が廃止となり、国内事業の部署へ異動となりました。

私はこの異動によって、折角積み上げ始めた海外コンサルタントとしての経歴に空白期間が出来てしまうことに不安と焦りを抱き、海外コンサルティング事業専属の会社に転職しました。

新しい会社では、確かに望み通りに海外コンサルティングの仕事を続けることが出来ましたが、私の専門分野の事業はその会社の看板事業分野ではなく、自社単独で仕事を受注するリソースを何一つ持ち合わせていませんでした。(これは、完全な私の事前リサーチ不足で、早く前の会社を飛び出したい、という焦りに起因する失態です。)

それでも、恥を忍んで前職の上司に頭を下げ、仕事を貰いに行くという屈辱を味わいながらも何とか自分の食い扶持程度の仕事には参加させてもらえるようになりました。

その後は、新規分野を立ち上げた業績を買われ、新規事業担当部署の新設に合わせ、管理職に昇格しました。

この会社には6年間在籍しましたが、流石に海外コンサルティング事業を専業として実施している会社だけのことはあり、自分が参画するプロジェクトの出張はもとより、部下が関わる他の分野のプロジェクトの関連でクライアントへの営業を目的とした海外出張もあり、一社目の頃よりも更に頻繁に家を空けることが多くなりました。

その後、事情があって、2度目の転職の末、今の会社に入社しました。(この話については、また別の機会にでもお話したいと思います。)

結果的に、海外出張続きで家族とまともに過ごすことができなかった期間が11年間も続きました。

妻の言葉が自分に罪悪感を抱かせる

一切家族との時間が無かったという訳ではありませんし、私としては、わずかな時間でも、出来るだけ妻や子供達と過ごす時間を確保しようと心がけていたつもりでした。

しかし、いつか聞いた妻の言葉の数々は、私の心に鋭く刺さり、罪悪感を抱かずにはいられないものでした。

「パパは、いつも海外出張か、仕事か、資格の勉強ばかりで、子供達と一緒に遊んであげた事ってほとんどなかったよね。」

「子供達の成長が一番楽しみで、そして大変な時期に、家に居なかったよね。」

私と家族が失った大切な時間はもう戻ってきません。

そして、その失った時間のせいで、私と関わることで娘に備わっていたかもしれない、

「将来自分が進みたい道を見つけ、それに向かって必要な努力をしよう。」

という考え方を養うことが出来なかったのではないか。
そんな風に、思ってしまいます。

変えられない過去よりも、「今」を考える

これまで、妻も私も、子供の将来を考え、今やらなければこの先自分が苦労するであろうことに気付いてもらおうと、「馬を水場に連れて行く」ことまではやってきたと思います。

どうしても水を飲むことを拒否する、娘の頑固な性格が、幼少期の父親との関わりの少なさと、直接因果関係があるかは分かりません。

しかしながら、私が今後悔している原因となった、

「プライベートを犠牲にしてでも、仕事を何よりも優先することが会社員としての当然務め」

という平成の働き方の常識は、
今や「非常識はなはだしい!」と全方位から強く非難されることでしょう。

しかし、変えることのできない過去を悔やんでいても仕方がありません。

「三つ子の魂、百まで」

と言うように、幼い頃に形成された人格や性格は、高校生の年代になって変わるのは難しいかもしれませんし、娘がこれからどう生きて行くのかは、娘自身の課題なので、親としては課題の分離をする必要があります。

ですが、出来るところまでは、「水場に連れて行くこと」を続けて行きたいと思います。

それが、過去に囚われず、「今できること」ですね。

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