見出し画像

偏見とは無知の現れ。今日の写真は朝のトーストにトッピングです。

偏見とは偏った見解、中立でない意見のことです。中立でないと本人が気づいているが、それが自分の意見だから発言の自由を侵害しないで欲しいと思っている場合と偏見だとはわかっていない無知の為せることの場合があるのです。

無知と言っても表面的な事を知っていても深くは知らずに判断材料としている場合と表面的な知識が偏っている場合と深い知識も偏っている場合があります。

にんげんの判断が偏った知識で行われているのか公平な立場で行なえているのかわかりません。わかったつもりになる事はできますが、学べば学ぶほど偏ってしまうのです。偏見で判断しない事は不可能です。偏見は知識と経験がもたらすのです。

物事の判断を知識や経験でせずに「幸せ」と感じるか感じないかで判断するのはどうでしょうか?「自分の幸せの為に他人の幸せは奪わない」

「運命に逆らわない、神のなすままに」という教えがあります。「運命」とはなんでしょう?

人間の意思を超えて幸せや不幸せ、悲しみや喜びを与える存在としています。でも、人間の意思が運命に作用したならばそれは運命ではなく当然と言えるでしょう。

当然を運命だと思わないことが、運命を切り開く事につながります。

偏見や差別、いじめは、運命ではありません。人に意思があってそれが作用して悲しみ、憎しみ、偏見が発生しているのなら、その事に気づきましょう。

どのように思うのかは自由です。私は「あなたが幸せでありますように」と願います。具体的に何をするではなく「あなたが幸せでありますように」と願います。具体的に何をするでもなく「あなたが幸せでありますように」と願います。具体的に何をすることなく。

お金と名誉と地位が幸せに感じるのならそれを求めても良いのです。でも他人の幸せを奪ってお金、名誉、地位が手に入ったとしてもそれは長続きしないのです。

死を迎えた時に「幸せな人生だった」と言えた人は何人ぐらいたでしょうか?偏見を受けて仕返しをしてそれで幸せだと思っても死を迎えるまで幸せでしょうか?

偏見だと思う人は偏見に気づいた人です。気づかない人には偏見の気持ちはありません。偏見の意味もわからないのです。

偏見の意味をわからない人と偏見だと思っている人とは噛み合う事はないのです。中立とは偏見の意味を知らない人に偏見を教えて偏見を止めるように進めるのではないのです。中立とはどちらの幸せも願って何もしない事です。

自分で判断する事を願って、判断材料を提供するのが中立の立場です。
中立は何もしないようで本当はするのです。それは判断材料を提供する事です。判断材料の中に「幸せとは他人の幸せを常に願うことで自分の幸せになる」を入れる事を忘れない事です。

偏見は他人の幸せを奪うことです。

#たぬきのポッさん #エッセイ #スキしてみて




この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,258件