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自分より実力がある人に出会った時にそれを認めて教えを乞う事ができるでしょうか?私にはできませんでした。それは常に頂点に立ちたいと思っていたからです。自分の世界だけをみていれば自分だけであれば常に頂点に立っているのです。それを孤独と言います。今日の写真は野菜たっぷりスープです。キャベツ、にんじん、玉ねぎ、椎茸を中華味、圧力鍋で毎日頂いています。

自分の思いのまま生活したければ人間関係が無い状態で生活をすれば良いのです。人の世話になっても人だとは思わない。迷惑をかけても相手は人だとは思わない。他人とは自分との関係がその他の人です。その他の人以外には友人、知人、距離が遠い親戚、距離が近い親戚、近所に住んでいる人、社会関係者、一緒に住んでいる親戚、親兄弟、子供や孫、婚姻関係など関係者を分類できます。

長く生きているとその人間関係が狭く深くなってくるのです。狭くないのに故意に狭くするのが孤独です。故意に狭くしなければ孤独にはなれないのです。人間関係が成り立つのは、縁があったからです。他人の世話が無ければ生きていけないのが人間です。お世話になったと認識できたら人間関係の始まりです。

世話とはあれこれ面倒を見る事で面倒とは煩雑で煩わしい事です。つまりあれこれ煩雑で煩わしい事をするのが人間関係です。したく無くても受けるのが世話、するのは世話では無く気持ちを伝える行為です。

#たぬきのポッさん  #エッセイ #スキしてみて

自分の子どもや孫を世話していると感じないのは煩わしいとは思わないからです。世話をしていると感じたらそれは苦痛に変わるのです。

世話を世話だと感じたら世話で返すのです。世話を世話と感じなければ相手の好意だと思えば良いのです。相手の好意は好意で返すのです。受けた世話も好意も返さなければ相手のストレスとなって溜まるのです。

返ってこない世話や好意はストレスになるのです。子どもや孫は生きているだけで好意を返してくれるのです。他人の中には生きているだけでストレスに感じる人がいます。他人だから干渉しなければ良いのに干渉されると他人から知人となりその後の分類で何者かになるのです。

送った世話や好意が返ってこなくて気にしないのは、すでにもらったものを返していると気づけば良いのです。受けた世話や好意をもらった人に返しているでしょうか?

親は自分が受けた世話や好意を子どもや孫に返しているのです。
子どもや孫に返せない人は、縁のあった人に返すのです。

それが感謝の気持ちです。有難ありがとうとなり自覚するのです。
難儀が有るとは、世話をしたりされたりする事です。人間関係があるから自分は存在できているのです。孤独とはその感謝することに気づかない事です。

挨拶とはその第一歩。これからお世話になりますと好意を示すのです。

誰も好意のない世話になりたく無いし、好意が無ければ世話をしたくないのです。事務的に心を無くして対応すれば人間関係の煩わしさは無くなると思っていたら大間違いです。

人間関係は相手があるのです。自分は事務的に対応しても相手は感情的に対応したいと思っているかもしれません。感情的な対応は激怒するとか泣かれるとかマイナスのイメージがありますが、人間の行動は心の中が知識と身体を使って行っているのです。

事務的に行って煩わしい気持ちにならないように行動しようとしても心の中では早く終わらせたいと思って相手の気持ちを感じる事ができなくなっているのです。

事務的な知識とそれを遂行する身体(頭脳)があるのであれば心の中で気遣いと思いやり不備が無いかを気配りして変化に気づく事ができれば、相手を怒らせたり悲しませたりすることはないのです。

心の中は、自分で管理できません。常に変化するものです。でも信念を持てばそれを基準に心は安定するのです。私の信念は人間関係は「自分が幸せになるには相手の幸せを願っていれば良い」自分に取り巻く環境は「納得しようがしまいが事実を認めてから対処するのが良い」人生とは「生まれてきて死ぬまでが人生ではない心の中を伝えて(感動)させることで引き継がれていく」と思っています。

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