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こころ

教科書でみたことのあるタイトルをつけてしまった…。

タイトルの通り、”心”について考える。

というか、
私自身、いつから心を意識し出したのか覚えていないが
これまでも心についていろんな切り口で考えて、
その時々で何となく納得している、というかさせている気がする。
どうもつかみどころのないもの、それが心なのか、と思う。

そんな風に思いながらも
やはり「心とうまく付き合っていきたい」と思う心がある。

さて、その心について、最近はこんな風に考えている。

”明るく前向きに!”
って………正直疲れる、と…。

これは、心は空模様に似ていて
晴れの日もあれば、
曇りの日も、雨の日も、嵐の日も、
豪雨、雷雨、吹雪、
静かに雪が積もるだけの日だってある、
と私は思っている。

ただ、晴れの日以外の心は、表に出さないように気を付けている。

なぜなら、気持ちは伝染するものだから。

だから、感染源を持った私は、他人に話すのは気が引けるし、
考え方を変えれば明るく、とか
せめて前向きにはできる術は身に着けているつもりだから。

どうやって前向きになるかって言うと、
負の感情を無視する、
別の事に時間を使い気を紛らわせる、
見方を変えて、逆転の発想をする、といったところ。

家族や友人、
複数や集団の中にいる時
私の”哀しい”や”悔しい”などの晴れじゃない気持ちが
誰の助けにもならず、
ただその場の空気を乱すだけならば
圧縮して閉じ込めた方が良い、と
とっさに判断してしまう癖を私は持っている。

そうやって私は、仲の良い家族を一生懸命作ってきた。

父が死んで、
子供が不登校になり、
劇症1型糖尿病になって、
家族は再起不能なほど崩壊した。

今は、家族と離れて私は東京で一人暮らししているから、
重い、吐き気がする気持ちからも離れられて気楽だと思う。
私が居ないので、私が暮らしていた実家近くに住む弟も実家に来るようだし、なんかこれでいいのかな、と思う。
実際、私は東京の生活は気を紛らわすものがたくさんあって気に入っている。

「じゃあ、いいじゃない」と思うけど、
前回綴った健康診断で
複数の癌の疑いの為精密検査となり
結果が出るまでの間に
どんな最期にしたいかを考えた時、
死ぬ気満々で生きていなかった自分に気付いた私。

誰だっていつ死ぬかわからないんだから
最期は、後悔少なめに死ねるように生きなきゃ、と
これまたいつからかわからないくらいその思いはぶれていないのに
死ぬ気が足りなかった、どこか他人事だった…と、感じた。

「今のこの環境で死んだら後悔少な目ではない!」とはっきり感じた。
それは、今の時間の使い方に私自身納得できていないということ。
まさに、自分の負の気持ち、
負にもなっていない疑念などを封印して仕事をしていること、
そして、子供に会いたい!と思っていること、
それらを無いものにして、
時間が過ぎるのを待っている、
死に近づいていることが気持ちが悪いのだ。
心がじたばたして、オエーって吐き気がするのを頭で感じているのだ。

つまり、私は今、とても寂しい。
というか、
多分、今じゃなくて、今さら…。ずっと…。

でも、私が気付いた私の気持ちで、
平和な実家を崩すことはしたくないし、
子供は何を考えているかわからないけど
気持ちに負担掛けたくないし、
東京の生活は悪くないし…とか色々錯綜する。

とりあえず、
その色々な気持ちを一つずつ取り上げて
優劣付けずに並べて、面談してみようと思う。

これまでの経験上、
そもそも”負の感情”と言うのは
いつの間にか私の中に居座っていた偏見で、
本来、プラスもマイナスも無いということ。
偏見に従い、負の感情を縛り上げても閉じ込めても
何かの拍子で、
埃まみれでお化けみたいになって現れる。
そりゃ、そうだよね。
無視されたり、押さえつけられているんだから。
だから、ひとつひとつ、向き合ってみようと思う。

がんばらなきゃ、
明るくいなきゃ、と呪縛にとりつかれていたからこそ気付いた
こころの一面。

「こころ、おまえも寂しいんだな」と語り合おう。





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