【ユンゲ・フライハイト紙】ドイツの学校の状況: ゆすり、恐喝、いじめ
2020年3月4日
イスラム教徒への敵意というテーマが公共メディアで四六時中テーマとなる一方で、多文化的大都市におけるドイツ人への敵意というのは、ほとんど周縁的にしか取り扱われない。あるベルリンのユーチューバーが、このような状況を変えようという目標を立てた。彼のチャンネルである「若者の意見」のうちで、24歳のアレクサンダーは、「多彩な色をもった(多様な)」社会が次の世代に与える影響を明らかにすることを試みている。多くの生徒たちが彼に報告したのは、組織的ないじめと社会的な隔離である——そしてこれは、彼らはドイツ人であるという理由で行われるのだ。職業上の帰結への恐れからは、彼は自分のフルネームを挙げることを望んでいない。
——アレクサンダー、君は自分のユーチューブのプロジェクトにおいて、しばしばある特定の人々の運命について、打ちこんでいるね。君は思春期の若い少年たちに、私たちの多文化的社会にまつわる経験について質問しているね。あなたが話しているのは、どんな人々なんだろう。
アレクサンダー: ほとんどが学校の生徒だよ。彼らは若くで、世の中に順応せず、利発で、自分の考えで思考できる人たちだ。
——彼らはあなたに何を語ってくれるんだい。
アレクサンダー: 主要なメディアや新聞やトークショウでは、ほとんど耳にすることができないことかな。多文化主義を礼賛するドイツにおいて、移民という背景をもたずに成長するということは何を意味するのかということとか?学校からの帰り道に、いわゆる難民といわれる人から喉にナイフを突きつけられて、どうやってかつあげされたかとか?学校の幹部たちの間違った政治的意見によって、どんな問題に巻き込まれたか、とか?
——人々に語ってもらうのは大変なことだったかい、あるいは彼らはまったく一人で君に連絡してくるのかい。
アレクサンダー: 僕がユーチューブで自分が完全に友達をなくした顛末を語ってからは、若者たちは、ほとんど一人で僕のところに来るようになったかな。多くの人々がけれども、僕としゃべるのを不安がっている、社会的に隔離されるのを恐れているんだ。とんでもない抑圧という結果を考慮にいれることなく、彼らは自分の経験について報告することができない、と考えているんだ。
——だからインタビューの相手は匿名で登場しているんだね。でも、どうやって視聴者は、君の相手やそのお話が本当のことであるということを、信じているんだい。
アレクサンダー: 基本的には、僕はとってもオープンに偏見なく、尊敬と信頼をもって彼らに会うし、彼らもまたそうして僕に近づいてくる。衝撃的ではあるけど、彼らの話すことは、何百回でも同じこと、似たようなことが起こりうるような日常的な物語なんだ。そして僕は、彼らのお話へと関心を向けて、細部について質問をして、具体的な情報を求める。それに続いて電話をしたり、直接会ったりして、そこからちょっとずつ全体像が現れてくるんだ。ぼくが社会での自分の仕事によって得ていた人間についての確かな知見が、ある人が信じられる人かどうかについて考えるのに、とても助けになっているんだ。
——増え続けるドイツ人に対する学校での人種差別について君は訴えているね。君が語っているようなお話というのは、悲しくも学校ではよく起こってしまうような、ただの個別のいじめの事例とはいえないのだろうか。あるいはそこにはより大きな背景はあるのかな。
アレクサンダー: 人間、とりわけ若い人々が集まるところでは、いまも昔も、いじめというのがテーマになりうるよね。でも学校で、ドイツを最低の下品なやり方で侮辱するようなポスターが貼ってあったり、あるドイツ人の生徒が学年で唯一のドイツ人で、何年間も最悪の形でいじめられるという場合には、少なくともそこではまったく別の次元が問題になっているんじゃないかな。
——それはどういうことだろう。
アレクサンダー: 最近では思春期のドイツ人たちは、国家の側からも、彼が混ざっているクラスの側からもいじめられているんだよ。彼らは自分たちの正しい国民感情に対する攻撃を受けているんだ、一方ではそういうものをずっとやめるように教育されているし、他方ではクラスの多数を占める移民からの心理的な攻撃に耐えなければいけない。それは簡単な課題ではないよ。
——こういうテーマはドイツではこれまでずっと知られてはいなかったか、あまり詳細には議論されてこなかったんだろうか?2009年には、ARDの番組のPanoramaがノイケルンの学校におけるドイツ人に対する敵意について取り扱っていた。また2010年にはFAZが「イスラム教徒の生徒による人種差別が社会の焦点になっている」と主張している。
アレクサンダー: それから長い時間が、この国では流れたと思う。すでに当時から散発的には訴えられていたけど、ドイツの学校の人口学的な統計が劇的に先鋭化しただけではなくて、また意見の自由や意見の多様性の大部分がメインストリームによって尊重されなくなった。公的に受けいれられる意見の範囲というのは2009年から明らかに狭まっていったし、語って許されることの窓は、左向きだけに開かれるようにシフトしていった。
——君が自らベルリン育ちとして、多文化主義的な区域で育った。どうやって君は——政治的にみて——成長していったんだい。
アレクサンダー: 僕は政治に大きな関心を持ちながら育ってきたんだ。平日には、MaishbergerやAnne WillやHart aber Fairを見逃すことはなかったし、金曜から週末はHeute Showとともに始まった。多文化的な基幹学校の後に、多文化的なギムナジウムに通った。そのギムナジウムについては最近、年報を手に入れたんだけど、意外でも何でもなく、第七学年から第八学年いにいたるまで、生徒のおおよそ75%が、トルコ人やアラビア人の移民の背景をもった人たちだった。
——そして、2015年がやってきた、と。
アレクサンダー: 難民危機は本当に僕の周りで起こったことだった。僕は、当時の自分は「(難民の到着を)駅で喝采した人」ではなかったと思うけど、誰かがもし自分をいわゆる難民が到着した駅へと連れて行っていたなら、僕は拍手としていたんじゃないかな。
——君が自分の政治的な意見を変えて決定的な時点というのはあったんだね。
アレクサンダー: ああ、それはあったよ!2015/2016年にケルンの大晦日の夜で起こった出来事は、僕の政治的な転回の出発点になっている。そのとき自分の中で世界が崩壊したんだ。まず僕は犯罪統計を読んだり、社会で語られている物語の背後を探って、探求することを始めた。
——君の政治的変化について、何か個人的な経験というのはあるのだろうか。君はすでに、それによって「すべての友達を失ってしまった」って言っていたけど。
アレクサンダー: 2016年に、25人位の友人や知人の仲間内で初めて、キリスト教民主同盟かドイツのための選択肢に投票することを考えていると話したときに、憤慨の嵐が起こったんだ。
——それはどういったものだったの?
アレクサンダー: 何度も何度も、10人近くの連中が自分の周りに立って、僕のことを「ナチの生き残り」と侮辱するような状況に置かれた。25人の友人の中から、残ったのは一人だけだった。僕の意見を激しく拒絶したにもかかわらず、僕に意見の自由への権利を許してくれたことについて、僕はいまでも彼には感謝しているよ。
——もしかしたら似たような問題を抱えている若い人々がいたら、どうやって君をコンタクトをとったらいいんだい?
アレクサンダー: インスタグラムでメッセージを送ってくれるのも歓迎だし、ユーチューブのコメント欄に投稿してくれてもいいよ。
※アレクサンダーは、ベルリン生まれの24歳、理学療法士として働きながら、2019年10月からユーチューブチャンネル「若者の意見」を運営している
https://jungefreiheit.de/debatte/interview/2020/abgezogen-bedroht-gemobbt/
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