【ミュンヘナー・メルクーア紙 ロング・インタヴュー】ベストセラー作家ビルギット・ケレ: ジェンダー妄想はこれほどまでに狂っている(前半)

2015年3月6日
——ミュンヘンのベストセラー作家ビルギット・ケレは、彼女の新しい本である『ジェンダー・ガガ: どれほど愚かなイデオロギーが私たちの日常を征服しているか』において、ジェンダー・イデオロギーについて考察している。インタヴューにおいて彼女は——ミュンヘンやキリスト教民主同盟における——そのイデオロギーの異常なまでの奇妙な繁殖について語っている。

三つの「大文字のF-テーマ」、家族、女性、フェミニズムが主題になるときには、彼女は常にトークショウの常連である。評論家にしてベストセラー作家であるビルギット・ケレは、女性が性的に魅力的であると同時に自立している——キャリア女性としても母としても妻としても——ことを認めるような「新しいフェミニズム」を擁護するために議論するのである。彼女の新しい本である『ジェンダー・ガガ: どれほど愚かなイデオロギーが私たちの日常を征服しているか』において、彼女はこの「ジェンダー・メインストリーミング」という愚かなイデオロギーについて考察している。彼女が主張するのは、「ジェンダー・メインストリーミングのせいで狂気の沙汰ともいうべきお金が浪費されているということである。そしてその目的は家族の破壊である」。その本においてケレは、女性のためのクオータ制や表面だけの反差別的なイニシアチヴを批判している。たとえばアンペルウーマン(女性の信号機の標識)の導入のような、である。「私たちはいまや遊び場や信号やトイレやカリキュラムやドイツ語や、挙げ句には聖書でさえもジェンダー化しているのです」、彼女はこのように非難している。目下ケレの本は、「社会批判」というカテゴリーにおけるアマゾンの売上ランキングの一位となっている。

先日の月曜日にケレは、ARD放送のFrank Plasbergによる討論番組「Hart aber fair」において、連邦議会における緑の党会派の長であるAnton Hofriter、「ネットフェミニスト」のAnne Wizorek(ツイッターにおける#セクシズムに対する叫び声キャンペーンの提唱者)と、激しい議論を行なった。その放送の後日に、私たちは、彼女の新たな本の読解という範囲内においてミュンヘンのホテル「バイエリッシャー・ホフ」において、彼女にインタビューを行った。

——ケレさん、バイエルン放送のレポーターVeronika Wawatschekの論争的なラジオ寄稿文において、以前にあなたは「キリスト教右翼的な議会外反対派」の一部というシンプルな描写をされました。『Welt』紙の寄稿者であるMatthias Matussekと『Cicero』の文化面の編集長Alexander Kisslerとともにです。率直にお聞きしますが、あなたはドイツのための選択肢かペギーダの構成員なのでしょうか、あなたの聴罪司祭は聖ピオ10世会なのでしょうか。

Kelle(以下K): (笑いながら)まさか!私が唯一構成員であるのはキリスト教民主同盟だけです。私がなぜ「キリスト教右翼の議会外反対派」でなければならないのかは、あのバイエルンのラジオ放送における謎な部分のままですね。あの寄稿文の作者は残念ながら、この概念を定義するための努力をまったくしておりません。さらには、この寄稿文のうちでは、私もMatussek氏もKisslerも発言を許されてはいません。そこで言われたているのは、いわれのない憶測だけであり、私たちは一度たりとて立場表明などしていないのです。その間にもこのプログラムに対するたくさんの苦情がバイエルン放送にありました。そこで名目上の「共犯者」として言及されていたエッセン州の司教の報道官は、この間にも、彼が私たちと話し合ったこともないことをはっきりと述べました——また彼の引用が文脈から引き抜かれたものであることも。こんなことはジャーナリズムとは何も関係がありません。

——あなたの最新の本である『ジェンダー・ガガ: どれほど愚かなイデオロギーが私たちの日常を征服しているか』において、奇妙な政治的イニシアイヴの寄せ集めを明らかにしました。そこでは、たとえば大都市において、アンペルマンの横にアンペルウーマンが要求されていたり——しかも同時にそれは典型的な女性の見た目ではいけない——連邦家庭省が学校における性別越境的なユニセックストイレ——自分を男性とも女性とも感じていない生徒のために——援助していたりしました。そこでひとはこう自問するのでしょうか。他にもっと大切な問題があるのではないかと?

K: そのようなイニシアチヴに唯一よいことがあるとすれば、もし私たちにそのようなたわごとに関わるだけの時間と金があるとすれば、さぞや私たちの国は本当によいものになるに違いないということです。私たちは際限のないほどの男女平等特命委員やジェンダー的に正しい言葉遣いのための手引書を構想しています。またジェンダー・メインストリーミングを支持する社会学者やあらゆる潜在的なカリキュラムによって浸食された180もの大学における講座があります。そこで私はしばしば問いかけるのです。私たちはそもそも四六時中なにをやっているのだろうか、と。

ジェンダー的に正しい呼称: 「Sehr geehrtx Profx」
——たとえば、どのようにしてジェンダー的に正しい呼称を使うことができるかということを構想する要綱についてですが、あなたは——こう語るのがすでにもう問題なのでしょうが——ベルリン・フンボルト大学のLann Hornscheidt(女性)教授(Professorin)について報告をしています。彼女は、「Herr」や「Frau」、「sehr geehrte」や「sehr geehrter」という添書きをすることを止めると、公的に発表しています。その代わりに彼女が要請しているのは、ジェンダーに中立的な呼称である「Sehr geehrtx Profx. Lann Hornscheidt」というものです。

K: 彼女は、以前はAntje Hornscheidtと名乗っていました。このことは数多くのホームページで閲覧することができます。しかしながら彼女は、自分がいま男性であるのか女性であるのかをはっきりとは確言していません。もし彼女が自分のプライベートな使用において「gehrtx. Profx.」という呼称を要求し、人々がそれを自分の意志で使うことを望むのであれば、どうぞ勝手にやってくださいというところです。しかし私にとって疑問なのは、なぜ、かの(女性)大学教授(Professorin)が望んでいることが公的に取り扱わるべきであるのかです。

——気をつけてください、ケレさん(Frau Kelle)!正しい呼称はProfx.ですよ!

いつでも、どうぞお好きなようにそう書いてください。ただHornschneidtさん(Frau Hornscheidt)については、この辺にしておきましょう。彼女の大学はいまや、一つや二つではなく、非常に多くの性別を包括的に表現できるような新しい言葉を発明したというわけです。アスタリスク、アットマーク、Xe、Asなどです。たとえばパン屋(BäckerないしBäckerin)の場合であれば、ジェンダー的に正しい呼称として、「Bäcka」、「Bäcker_Innen」, 「Bäcker*innen」、「Bä_ckerin」、「Bäckx」などが可能でしょう。これについた私が言えるのは、どうぞお暇な時間にやってください。でもそれで私の言葉を破壊してほしくはありません、ということです。

——ではジェンダー・メインストリーミングにおける問題は、差別されていると感じているあるマイノリティが、社会に対するマジョリティの感情を覆い隠そうとしてしまうということなのでしょうか?

K: 私たちはどのように差別というものを定義するのでしょうか。問題はここにすでにあると思います。つまり差別については、いかなる事実的証拠も必要がなくなってしまうのです。誰かが差別されたと感じるだけで十分だということです。私たちはそれらのすべての感情に従って、率先してそれらに追従しながら、私たちの言葉や書き方や、思想や行動までをも変える必要はあるのでしょうか、誰もが感情を害することがないように、というためだけのために。私の考えは、否です!

——ジェンダー・メインストリーミングという概念の定義をもう一度見てみましょう。政治的教育のための連邦中央局によれば、「政治的な戦略としては、ジェンダー・メインストリーミングは、あらゆる政治的な決定過程における女性と男性の平等化を目的とする」と書いてあります。これは基本的には悪くない理想のように思いますが…

K: いいえ、すでに「平等化(Gleichstellung)」という概念からして問題があります。以前はいつでも「同権(Gleichberechtigung)」ということが語られていました。つまりは、この国に住む全ての人々は、男性であろうと女性であろうと、平等な機会をもつべきであるということです。私が思うに、このことであれば誰もが同意できるでしょう。しかしながら「平等化」という言葉によって、私たちはさらに一歩先に進んでいます。かつて私たちは女性に対して門戸を開きました。いま私たちがしようとしているのは、彼女たちをおんぶして通過させようとすることです。そしてこの定義によれば、平等化の目的は、ある役所やある仕事場においてまったく同じ数の男性と女性が働くようになったときに、達成されることになります。その際に彼女がそれを望もうと望むまいと、です。かつて重要であったのは機会の平等でした。いま問題となっているのは結果の平等なのです。

——ではジェンダー・メインストリーミングという言葉によって、ひとは何をイメージするべきなのでしょうか。

K: 「ジェンダー」という概念で考えられているのは、いわゆる「社会的」性差です。ジェンダー論は、「社会的性差」と生物学的な性差——つまりは男性と女性を区別します。後者はこれまでは英語の「セックス」という概念によって定義されてきました。これまでは確かに「セックス」という性差の概念だけがいつでも認められてきて、学問的にも使用されてきました。しかし、いまジェンダー論が主張しているのは、性別は、生物学的な構成要素だけではなく、特に社会的な構成要素も持っているということです。そこに属しているのが、また役割についてのイメージです。だからこそ私自身も生物学的に女性であるだけではなくて、ジェンダー論によれば、女性という役割へと強制されているというわけです。こうして性別は後天的に教えこまれる役割となり、それは教育を変えさえすれば変更することができるということになるわけです。ここで紛らわしいのは、生物学的性差と反対にであっても、ひとは社会的性差を選ぶことが許されるということです。つまりは、すべての男性は、女性になるという決断もできるということになります。そして、それが徐々におかしなことになっていったわけです。

ジェンダー論者: 4000に達する多様な性差がある
——なぜです?

K: もう私たちは男性と女性というだけで済ますことはできません。フェイスブック上にいる人は誰でも、自分の性別を60の性別から探さなくてはなりません。その際に本質的に問題になっているのは、どのような性的志向をもっていて、何に対して性的な興奮を覚えるかということなのです。これこそが、ジェンダー論によれば性別の新たな定義なのです。それだけでは十分ではありません。多くのジェンダー論者は、4000に達する性別が存在していると述べています。


——ちょっと素朴な質問をさせていただきますが、男性と女性以外にまだ、どのような性別が存在しているというのでしょう。

K: フェイスブック上のバッチという性別について取り上げてみましょう。それが意味しているのは、男性的な振る舞いをするレズビアンのことです。しかし、あらゆる恣意的なジェンダー的な振る舞いの作法にもかかわらず、ここで問題となっているのはいつでも、女性なのです。彼女が医者に施術してもらうために、原理的には二つの可能性があります。つまりは産婦人科医によってか、泌尿器科医によってです。しかし、どちらの医者によって彼女が最終的に施術されるかは明らかではないでしょうか。あるいは一人のトランスジェンダーの男性、つまりは、自己理解においては男性と感じていて、男性として生きていきたいと望んでいる生物学的な女性の例をとりあげてみましょう。このトランスジェンダーの女性が妊娠した場合には、世界のうちで子どもを授かった最初の男性ということになるでしょうか。それとも、なおも生物学的にみれば女性ということになるでしょうか。

——では、このようなジェンダー・イデオロギーはどこから来たのでしょうか?そして誰がそれを政治的に推し進めているのでしょうか?

K: 「ジェンダー」の概念と「セックス」の概念が誤って交換されるという事態が、政治的なレベルで初めて生じたのは、1995年に北京で開催された世界女性会議においてです。本質的には、その背後にいたのはアメリカのフェミニストたちです。彼女の名目上の目的は、ステレオタイプを打破して、自分の役割を自分自身で定義するというものでした。そうしてトランスセクシュアルな研究から「ジェンダー」という概念が生まれてきました。つまりは、その概念が生じてきたのは、間違った身体のうちに生きていると感じている人間を主題とするような研究の領域からだったのです。そして私は、そういった人々にとっては、このことが容易なことではないことだろうということは認めます。しかしながら、それによってなぜ私自身がまた、私の性別について思い悩む必要があるのでしょうか?また同時に、このような思想の所産が、学校での学習計画にまで盛り込まれる必要があるのでしょうか?ただ一握りの人々が自分自身を定義するのに世界中で問題を抱えている、それだけの理由で、私たちの子どもは、すでに小学校で自らの性別について問いかけなおしてみる必要があるのでしょうか?

——当事者の人々にとって決して容易な運命ではないしょうね。

K: その点で問題を抱えていると語っている人々については、私はもちろん理解いたします。ただ私が問題だと思うのは、それがまるで、すべて通常のことであると考えるように、ひとが強制されることです。あるいは素晴らしいことであるかのように、です。そこで私は否というわけです。私はそれを前提とすることはできません。そしてまた私は、自分の子供たちが、第一にそのような問題に関心も持っていないし、第二に彼らにとって過大な要求となるような年齢において、このような主題を学校で取り扱わなければならなくなることを望みません。私もまた自分自身に強制してほしくはありません。私は女性なのです。いまもそうですし、明日もそうでしょう。私は自分が女性らしくあることに幸せを感じているのです。そして、もしあなたが、世界の人々に目を向けてみるならば、ほとんど人々が、自分が男性であるか女性であるかをはっきりと語ることができるのを確認できるでしょう。私が疑問に思っているのが、なぜすべての人々が自分の性別について問いかけなおしてみる必要があるのか、ということです。誰がそれで得するというのでしょう?誰も得しません!しかしこういった人々は言うでしょう。君たちは自分を解放しなければいけない。君たちはみな縛られているのだ。君たちはみなステレオタイプな役割を生きているだけだ、と。彼らに対して私は言いましょう。なるほど仮にそうだとしましょう!でももし私が女性や母親というステレオタイプな役割において幸福であるとしたら、なぜ私はそうやって生きていてはいけないのですか?

——あなたの立場はこのように要約できるでしょうか。つまりは、多くの人々が抱えているアイデンティティ的な葛藤については敬意を払わなければならない。しかしながら、それはマジョリティに対して押しつけられるべきではない、と?

K: その通りです!私にとって驚くべきことはジェンダー・メインストリーミングが、私たちの政治における指導原理となっていることです。しかし、以前にそのことについて政治的な議論をしたことを思い出していただけますでしょうか?私たちがそれを本当に望んでいるか、ということを私たちは公的に議論しました。ドイツにおいて私が発見した唯一の正当化根拠は、この概念を指導原理として受け入れている連邦政府内閣の職務規定だけだったのです。しかし、ドイツにおいて政治を行なっている委員会は連邦政府内閣だけではありません。連邦議会を例にしても、同じ様なことが言えます。このテーマが公共的になるのに貢献することを私は望んでいます。そして私は、ドイツにおいて、この指導原理に賛成する人々が本当に多数派であるかどうか、それを楽しみにしているのです。月曜日にゲストとして私が出演したARDの番組である「Hart aber fair」においては、そうではないという感触を私は持ちました。

——いまやジェンダー・メインストリーミングは、バイエルンやミュンヘンにもやってきています。そして驚くべきことだと思うのは、よりによってキリスト教社会同盟の大臣が、ジェンダー的に正しい言葉遣いのための基準をむりやりにも実現しようとしていることです。

K: 二年前に連邦交通省は、当時のキリスト教民主同盟の大臣のPeter Ramsauerのもとで、ジェンダーに配慮した言語に切り替えました。2013年4月1日に、道路交通上の規定は「男性と女性の平等な言語的な取り扱いへの要請」に対応したものとなりました。それ以来ドイツ国内には歩行者[男性](Fußgänger)もいなかれば、自転車乗り[男性](Radfahrer)もいなければ、自動車運転手[男性](Autofahrer)もいません。これらはすべて女性を差別するものとなったのです。その代わりに、「徒歩で歩いている人(zu Fuß Gehenden)」や「自転車に乗っている人(Radfahrenden)」という言葉が使われます。そして、この概念のうちには、すべての性別が含まれることになります。私にとって疑問なのは、これまでこれらの言葉によって本当に差別されていると感じた人がどれだけいたのか、ということです。また私はこのことでどれくらいのコストがかかったのかを知りたくも思います。新しいジェンダーに配慮した言葉遣いのために、すべての公務上の文書は書き換えられなければいけませんでしたし、印刷物や法律やパンフレットも新たに出版しなければなりませんでした。さらにいえば、それに加えて、そこでは言葉の意味も間違っています。「徒歩で歩いている人」というのは、連続的な活動に従事している誰かのことです。しかしながら歩行者は、また赤信号で停止もします。だからこの言葉は、それを厳密にするのであれば、「信号では立ち止まる、徒歩で歩いている人」でなければならないはずなのです。これはまったくもってイカれているとしかいいようがありません。

https://www.merkur.de/politik/bestseller-autorin-birgit-kelle-irre-gender-wahn-gender-gaga-4790683.html

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?