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にがうりの人 #39 (不穏なポリリズム)

 翌日には前日からの雨もあがったが湿度は高く、黙っていても汗ばむ陽気だった。

 昼食を終えてお茶をすすっていると、サイズの合わないTシャツにずり下げたジーンズ姿の蒲田が事務所へとやってきた。首にぶら下げているヘッドフォンからやかましく音楽が垂れ流されている。
 私がお茶を運ぶと彼はソファにふんぞり返った。高峰が向かいに腰をかける。彼は簡潔に挨拶をし、丁寧に依頼を断った。

「どういうことやねん。あ?あんたそれでも弁護士なんか?」
 蒲田はテーブルを蹴り上げた。ガチャンと湯飲みが派手な音を立てる。
「とにかく、この依頼は当事務所では扱うことができません」
 高峰は他の弁護士を探せとは言わなかった。彼にはそれが言えなかったのだろう。
 しばらく睨み合いが続いた後、蒲田は唐突に不敵な笑みを浮かべた。気味の悪い強かな、笑みと言うのも憚られる、嫌な表情だった。
「わかったわ」
 妙に聞き分けの良いその返事に私は胸をなでおろしたと同時に何か深い闇を覗いた気がした。それが何であるか判然としなかったが、闇の向こうでうごめく影が何かの予兆でない事を祈った。蒲田は立ち上がり一度鼻で笑うと高峰を睥睨した。
「まあ、せいぜいお仕事頑張ってくださいな」
 そう抑揚の無い口調で言い、蒲田は事務所の出口に向かった。するとどういうつもりか突然踵を返すと私に近づき、耳元で囁いた。
「悪いこと言わへんから、こんなところはよ辞めたほうがええで」そう言って耳障りな含み笑いをし、蒲田は消えた。

 数多の案件があり、その数だけ様々な人間模様がある。後味が悪いことは珍しくもなかったが、今回の一件は異様な暗影を帯びている気がしてならなかった。しかし現実の業務をこなすには気にしている暇は無く、再び日常の業務に戻った。

✴︎

 相変わらず日々の仕事に忙殺されていた私達の元にある時一本の電話が鳴った。私はパソコンのキーボードに置いていた手を受話器に伸ばした。
「はい、高峰法律事務所でございます」
 電話の相手は大手出版社であった。どうやら高峰の弁護士として活動してきた実績が彼らの耳に入ったらしく、特集記事を組むための取材をしたいとの事であった。
「先生、やはり見ている人は見ているんですよ。これを機に全国の真面目な弁護士達が世間に認められればいいですね」
 私は興奮していた。高峰を間近で見ている私にとって良識ある弁護士の待遇の低さには憤慨していたからである。
「珍しがっているだけでしょう。今時こんな貧乏弁護士いないですからね」
 そうやってまた高峰はコロコロと笑う。
 彼はいつもそうだった。それは依頼人にも私にも分け隔ての無い笑顔である。だから、彼の元にはいつも人が集まり、笑顔が溢れていた。

続く

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