見出し画像

にがうりの人 #54 (三の矢)

 私は呼吸を整え、いつもと変わらない取引の説明を始めた。男は時折、細かい質問を投げてくる以外は小刻みに頷きながら真剣に聞いている。
 前客からの紹介資料ではどうやら出版関係の仕事をしているらしい。彼がどの程度の資産家なのかは分からない。いや、私にとってみれば、資産家や政治家などの高い地位につく人間がもつ人脈が大事なのであって、その取引相手が金を持っていようがいまいがどうでもよく、庶民からは異質に見える感覚を持つ人間であればよいのだ。類は友を呼ぶといい、私の目的もそこにあった。

 だがそれも今日で終わりだ。私には感慨深い気持ちと同時に諦観にも似た安堵が宿っていた。
 しかし、ややもするといい知れぬ恐怖が頭をもたげる。私は目の前の男を再び見た。そこには強者特有のありあまるオーラやみなぎるエネルギーの微塵もない弱々しい人間が青い顔をして佇んでいる。それを見ると改めて私の運命が決まったと感じた。
「こ、これでお願いします」
 男は分厚い封筒を丁寧にテーブルの上を滑らせた。中身を確認すると提示した通りの札束が顔を出す。私はニコリともせずにそれを内ポケットにしまい込んだ。
「ほ、本当に私の求めているような話なんでしょうね?こ、こんな大金を払っているんです。見当違いな話だったら、こ、困りますよ。わ、私だって時間がないんですから。それにねえ」
「あなたが喜ぶかどうかは分かりません。しかし、満足すると思いますよ。今日の話は特別ですので」
 今日の話は特別。その言葉に嘘は無かった。そしてそれをあの男の前で話したかった。しかし、それも叶わない。私の負けである。
「あ、あ、いや、その気分を害されたなら謝ります。その、私も困っておりまして」
 男はそう言って恐縮した。私には男の気持ちは分からない。だが、彼の気持ちも彼が何者なのかも私にはもう関係がない。ただ、話すだけだ。

 私は目を閉じた。深い闇の中を泳ぐように潜る。そこはもう以前のように様々な色がある訳ではなく、私の気持ちは重くなる。
 長く、永遠に感じられるその漆黒の中から今日の商品を取り出し整理する。それは思っていたよりも私にとっては負担の大きい仕事だった。誰しもが持つ思い出したくない過去。そう思えば思う程、その印象は強くなる。
 私は吐き気をこらえ、目を開けた。目の前には相変わらず青白い表情をたたえた男が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

 最後だ。

 私は一息漏らし、口を開いた。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?