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「大切な命を粗末に扱うな」と自殺した人を責めるのはどうかと思う

日本は世界的にみて最も電車が発達している国です。


しかし、その電車が発達していることに対する弊害として、ほぼ毎日飛び込み自殺が起きてしまっています。

「うつ病の希死念慮がとうとう実現してしまった瞬間なのだろうか」
「誰も耳を傾けてくれなかったのだろうか」

私の心の声

私自身いつもそのように想像してしまい、心が痛みます。

そういった人身事故に遭遇してしまうと、予定していた会社出社時刻に間に合わない、お客さまとの商談時刻に間に合わない、といったストレスを抱えることになります。


と、ここまでの「巷の心情」は私も共感できますが、その自殺した人に対して



「親から授かった体をそのように粗末に扱うのは罰当たりだ」

上から目線のクソバイス


と、(会ったこともないのに)あたかも普遍的真理を述べているかのような装いで容赦なく責め立てるツイッターのコメントが必ず出現します。

申し訳ありませんが、そういったコメントに対して私は違和感を覚えます。何故なら、そういったコメントは



自殺した人が抱えていた「事情」を一切無視


してしまっているからです。その自殺した人は

もしかしたら親から虐待を日常的に受けていたのかもしれないし

もしかしたら孤児で誰が親かもわからない人だったのかもしれません。

それこそ「親に感謝しろ!」と日々罵倒され続けてきた人かもしれません。

分かりませんが、ここでは



「その人の抱える事情をくまないと、親との関係性に関しては、実際のところ何も口をはさめない」


ということが言いたいわけです。


まあ色々述べていますが、私自身は親から大事に育てられて、虐待は一切なく、そうやって育ててくれたことに対して自然に感謝しています。しかし



「産んでくれた親に感謝しましょう」

巷の典型的クソバイス


という、命のバトンの説法(上から目線!?)は、往々にして個々人の複雑な事情を軽視しているので、その点には異議を唱えざるを得ません。