拷問か愛

PETAが日本ハムの養豚場の実態を暴露【翻訳掲載】

これらの大変に残酷な実態は氷山の一角であるということを人類は深刻に考える必要があります。
わたしがずっと訴えていることとは、「とにかく動物(他者)を苦しめ、殺してはならない。」ということではないのです。
わたしは多くのヴィーガンとはおそらく違う観点から人類がヴィーガンになる必要があることを訴えて来ました。

多くの人は、死後の世界を信じておらず、人間の個の魂が、動物の個体(肉体)に生まれ変わり(転生し)、みずからの負のカルマ(罪)を清算しようとする可能性について関心を持っていないかも知れません。

しかし、わたしが常に訴え、説いてきたのはそのことであり、これが繰り返されることによって、人間の魂は永久的に《魂の牢獄》から抜け出られないのではないかということに対する深い危惧でした。

しかし、この《輪廻転生》の現象とは、そう容易く理解できるような単純なものではないということも考えていました。
或る考え方では、このような単純な輪廻転生の在り方は存在してはいない。と考えることもできます。
それは人間の魂というものも、動物の魂というものも複雑な構造をしていると考えられるからです。
例えば以下の二つの考え方は厳密には違うと言えるものです。

  1. 人は動物に生まれ変わり、動物の意識と感覚を通して、その苦痛を味わい、霊的な成長を求める。

  2. 人の魂が、動物の肉体に乗り移る(憑依する)形で、動物の感覚としてではなく、飽くまでも人間の意識と感覚の状態で、その苦痛を味わい、霊的な成長を求める。

この場合は、厳密には、②の場合は『人は動物に生まれ変わることはない』と言えるのです。
しかし霊界から地上界にある肉体に乗り移ることで、自分がこれまで犯し続けてきた無慈悲な行為によるその苦しみや痛みや恐怖の経験をみずからしようとすることは可能であると考えることができます。

屠殺場で足を止め涙を流した老僧 そのわけは?

ある老僧が屠殺場を通りかかった際、涙が流れるのを禁じえず、深い哀しみを覚えた。

人々はとても不思議に思い、なぜ哀しんでいるのか、老僧に尋ねた。

 すると、老僧は次のような話を始めた。

 「話せば長くなるのですが、私は、自分の二つ前の前世まで記憶しています。

私が初めて人に転生した際は人で、三十過ぎで死にました。

死後、その魂は、数人に縛り上げられ、閻魔大王の前に連れて行かれました。

閻魔大王は、私の殺生が過ぎたのを責めたて、悪の報いをもって判じました。

 そのときの私は、恍惚朦朧としており、醒めているような夢の中にいるような、頭部が熱くてたまらなかったのですが、突然一陣の涼しさを覚え、気がついてみると、豚小屋の中の子豚に生まれ変わっていました。

 私は乳離れしてわかったのですが、人は豚たちに見るからに汚い餌を与えているのです。

ただ、とてもお腹が減っていたので、私はやむなくその餌を食べました。

その後、私は次第に豚語を解するようになり、仲間とおしゃべりができるようになりました。

前世のことを憶えている仲間もたくさんいましたが、人に説明する術がありませんでした。

私たちは皆、いつかはされることを知っていました。

それゆえ、いつも呻き声を挙げ、将来を憂えていたのです。

私たちの目と睫毛は、常に涙で濡れていましたが、それは、自分たちの運命を知っていたからです。

 私たちはまるまると肥えていたので、夏の暑さには耐えがたく、泥水の中に身体を浸けては、いくばくの涼しさを覚えていました。

わたしたちの毛は、まばらで硬く、冬になると寒さに耐え切れませんでした。

そして、十分な大きさまで肥えると屠殺されるのです。

人に捕まえられると逃げられない、と内心分かっていても、命が惜しくて逃げようとするのです。

捕まえられると、私たちの四肢は紐で縛り上げられますが、紐がきつくて骨身に滲みるようで、鋸で切られているようでした。

それから、私たちは、車か船に折り重なるように載せられます。

肋骨は折れそうになり、百脈は塞がり、腹は裂けそうです。

 時には、竹ざおに吊るして運ばれるのですが、犯人が挟み上げの刑に処せられるよりも辛いものでした。

屠殺場に着くと、人によって地面に放り投げられます。

あるものはすぐにされるのですが、あるものは数日間待たされます。

そのときの心理的苦しみは、もっと耐えがたいものがあります。

 自分がされる番になると、人が曳いていきます。

私は怖くて頭がくらくらし、全身から力が抜け、目を閉じて死を待つほか仕方ありませんでした。

人はまず、私の喉を切り裂き、体を揺すって血をバケツの中に入れました。

そのときの苦しみは、ことばで言い表すことのできるようなものではなく、死ぬにも死に切れず、ただ咆えるばかりでした。

血が全部出されると、今度は心臓を一突きされます。

この痛みは耐え難く、この段になって咆哮が止まります。

この時、魂が解放され、再び覚醒したかと思うと、すでに人として転生していました。

閻魔大王は、私がその前世でわずかながら善行をしたことを知っていたので、人に転生させてくれたのです。

 今しがた私は、この豚が殺される苦しみを受けているのを目にして、思わず自らが前世で受けた苦しみを思い出しました。

それに、こちらの屠殺人も同じような苦しみを味わうことになるのだと考えると、涙が流れるのを禁じえなかったのです」。

 老僧のこの話を聞いた屠殺人は、すぐに屠殺包丁を捨てて、野菜売りに身を転じたという。


わたしはこのお話を本当に愛しています。
どうして、老僧がこのような本当に苦しくてならない経験をしたのかと考えると、それはただただ自分のカルマ(業)を清算し、自分が救われて、進化してゆく為だけにしたのではないからだと感じられるからです。
もしこれらの経験を自分ではない存在から強制されてしなくてはならないものだとするならば、わたしたちには”真の自由”というものは存在していないことになります。

しかし、我々は、《自由ではない世界》より、《自由な世界》を求めているのではないでしょうか。
もし本当に自由を求めているならば、《何者かに強制されている世界》であることを信じる必要もないのです。

わたしはそのように考えることはありません。
すべての存在は、本当に自由な存在であってほしいと心から願っているからです。
わたしはこの老僧が、屠殺される運命にある豚に生まれ変わって、堪え切れなく、堪え難い苦痛を経験し、拷問の後の死というものを経験したことは、みずから備わっている《愛(慈愛、利他愛)》という存在によってであっただろうと確信できるのです。

わたしたちは、本当に自由な存在であるからこそ、動物(他者)を苦しめて殺しつづけて生きることか、苦しめることも殺すこともなく生きること、どちらでもみずから選択して生きることができます。

わたしは、ずっと人類が後者を選択できることを望んで来ました。
それは生命が、《堪え切れないと感じるほどの苦しみ(拷問的苦痛)を経験する》選択を、できるならばしては欲しくないのだという自然な人情によるものからです。

わたしの訴えとは、ただひとつ、これだけなのです。

人類は、《拷問か愛》、どちらでも自由に選ぶことができます。
しかし、愛がその心のなかにあるのならば、自分自身(他者)に対する《拷問》ではなく、《愛》を選ぶことはできるのです。






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