拷問か愛
PETAが日本ハムの養豚場の実態を暴露【翻訳掲載】
これらの大変に残酷な実態は氷山の一角であるということを人類は深刻に考える必要があります。
わたしがずっと訴えていることとは、「とにかく動物(他者)を苦しめ、殺してはならない。」ということではないのです。
わたしは多くのヴィーガンとはおそらく違う観点から人類がヴィーガンになる必要があることを訴えて来ました。
多くの人は、死後の世界を信じておらず、人間の個の魂が、動物の個体(肉体)に生まれ変わり(転生し)、みずからの負のカルマ(罪)を清算しようとする可能性について関心を持っていないかも知れません。
しかし、わたしが常に訴え、説いてきたのはそのことであり、これが繰り返されることによって、人間の魂は永久的に《魂の牢獄》から抜け出られないのではないかということに対する深い危惧でした。
しかし、この《輪廻転生》の現象とは、そう容易く理解できるような単純なものではないということも考えていました。
或る考え方では、このような単純な輪廻転生の在り方は存在してはいない。と考えることもできます。
それは人間の魂というものも、動物の魂というものも複雑な構造をしていると考えられるからです。
例えば以下の二つの考え方は厳密には違うと言えるものです。
人は動物に生まれ変わり、動物の意識と感覚を通して、その苦痛を味わい、霊的な成長を求める。
人の魂が、動物の肉体に乗り移る(憑依する)形で、動物の感覚としてではなく、飽くまでも人間の意識と感覚の状態で、その苦痛を味わい、霊的な成長を求める。
この場合は、厳密には、②の場合は『人は動物に生まれ変わることはない』と言えるのです。
しかし霊界から地上界にある肉体に乗り移ることで、自分がこれまで犯し続けてきた無慈悲な行為によるその苦しみや痛みや恐怖の経験をみずからしようとすることは可能であると考えることができます。
屠殺場で足を止め涙を流した老僧 そのわけは?
わたしはこのお話を本当に愛しています。
どうして、老僧がこのような本当に苦しくてならない経験をしたのかと考えると、それはただただ自分のカルマ(業)を清算し、自分が救われて、進化してゆく為だけにしたのではないからだと感じられるからです。
もしこれらの経験を自分ではない存在から強制されてしなくてはならないものだとするならば、わたしたちには”真の自由”というものは存在していないことになります。
しかし、我々は、《自由ではない世界》より、《自由な世界》を求めているのではないでしょうか。
もし本当に自由を求めているならば、《何者かに強制されている世界》であることを信じる必要もないのです。
わたしはそのように考えることはありません。
すべての存在は、本当に自由な存在であってほしいと心から願っているからです。
わたしはこの老僧が、屠殺される運命にある豚に生まれ変わって、堪え切れなく、堪え難い苦痛を経験し、拷問の後の死というものを経験したことは、みずから備わっている《愛(慈愛、利他愛)》という存在によってであっただろうと確信できるのです。
わたしたちは、本当に自由な存在であるからこそ、動物(他者)を苦しめて殺しつづけて生きることか、苦しめることも殺すこともなく生きること、どちらでもみずから選択して生きることができます。
わたしは、ずっと人類が後者を選択できることを望んで来ました。
それは生命が、《堪え切れないと感じるほどの苦しみ(拷問的苦痛)を経験する》選択を、できるならばしては欲しくないのだという自然な人情によるものからです。
わたしの訴えとは、ただひとつ、これだけなのです。
人類は、《拷問か愛》、どちらでも自由に選ぶことができます。
しかし、愛がその心のなかにあるのならば、自分自身(他者)に対する《拷問》ではなく、《愛》を選ぶことはできるのです。
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