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「明治150年」と「戊辰(ぼしん)150年」を読む

▼近所の本屋に「はじめての新書」(岩波新書創刊80年記念)という無料の小冊子が置いてあった。岩波以外の新書も紹介しているで、本好きにとってお得な情報がたくさん詰まっている。なかでも、『AIvs.教科書が読めない子どもたち』で時の人となった新井紀子氏(国立情報学研究所教授)の文章に考えさせられた。適宜改行。

〈山本義隆『近代日本一五〇年ーー科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書)は、「明治からの一五〇年」を、年表で学ぶ政治と戦争と平和の歴史という年月に、日本という東洋の一後進国が科学技術総力戦体制を組み上げ、それが破たんした過程という別の視点を与えてくれる。

そこから眺めてみると、急速な少子高齢化やインフラの劣化の中で二〇三〇年の国の姿が描けなくなった日本で、亡霊のように「テクノロジーによる一発大逆転論」に繰り返しすがっては失敗する国民の心理がくっきりと見えてくる。

この一五〇年間、私たちは、科学技術総力戦体制以外の生き方を知らず、そのために他の発想ができなかったのではないか、と。そして、ふと思うのである。その私たちが「なぜアフリカは、いつもこんな状態なのだろう」と呆れるのは、恥ずかしいことではないか。〉

▼「近代日本150年」を、今年「明治150年」と呼び、記念式典を開いた人たちがいる。おもに東京に多い。いっぽうで福島県の会津若松市に行くと、駅前には「戊辰150年」ののぼりがズラリと並び、記念の行事が行われたと聞く。

会津には、おじいちゃんから「戦争で孤児になった」つらい経験を聞かされて育った、80代の人がいる。「おじいちゃんが孤児になった戦争」とは、「戊辰戦争」のことだ。

戊辰戦争とその後の会津の人々の歴史については、『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』という傑作が中公新書から出ている(石光真人編著)。

安倍晋三総理大臣は山口県出身である。今年、「明治150年」をめぐって国会で「官軍というと何なんですが、東軍と西軍ですね。西軍が正しくて東軍が悪いということではない」「山口の人間が西軍、東軍という言葉を使うことはあまりないが、相手が受ける印象を考えるべきだと思うのでこの使い方をしている」と答弁している(2018年2月6日産経新聞)。

NHKの大河ドラマでは今年「西郷どん」をやっているが、薩摩、長州率いる「官軍」の向こうには、会津をはじめとした「賊軍」がいた。「官軍」という言葉を使えば、必然的に「賊軍」という言葉を使うことになる。だから「官軍」は使わないわけだ。

官邸主導によって強権を振るい続ける安倍総理といえども、また政治家は人気商売とはいえ、こういう配慮をしなければならないほどの歴史的な関心が、日本人の心の中には今も静かに確かに流れているのだなあ、と筆者は感慨を深くした。

一つの歴史観を言揚げすることが、本人も意識していない裡(うち)に、他の人の心を波立たせる場合があるということを、2018年に日本政府が進めた「明治150年」の記念事業は教えてくれる。

▼加藤陽子氏が『戊辰戦争の新視点』上下(吉川弘文館)を書評していた。いつもながら加藤氏の書評は素晴らしい。2018年6月24日付毎日新聞から。

本書は、当時の社会と地域に生きる人々に、内戦が刻印した深い影響を、国際関係・政治・軍隊・民衆の観点から光を当てる。執筆者の多くが、東京大学史料編纂(へんさん)所、毛利家文庫、三井文庫等所蔵の貴重な一次史料を縦横に用い、確かな歴史像を描いているのは心強い。巻末の関連年表についても、和暦と西暦で年月日を併記した上で、事項を確定する典拠を挙げており、本書は維新期を学ぶ際の必携文献となってゆくだろう。〉

〈18人の論考はどれも面白いが、一人だけ名を挙げて、その水際だった面白さを称(たた)えたい。奈倉哲三氏は、錦絵の分析から当該期の人々の感情を見せてくれた。

朝廷に露ほどの親しみも感じていなかった江戸の民衆は、新政府の行いを諧謔(かいぎゃく)溢(あふ)れる判じ物の錦絵でからかっていた。徳川家の恩沢に長らく浴してきた江戸の町名主らは、徳川家や輪王寺宮をかばい、全員加判の歎願(たんがん)書まで新政府に出していた。戊辰戦争は志士たちの専有物などではなかったのだ。

筆者はどちらかというと志士たちのものではないほうの歴史観に惹(ひ)かれる。たとえば石牟礼道子氏の『西南役伝説』

▼余談だが、新井氏の文章のなかで「破綻」を「破たん」と書き換えたのはなぜだろう? 書名に「破綻」と出ているのだから、本文は「破綻(はたん)」でいいのではないか?

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