変でいたい。
自分の偏差値みたいなものを、知りたくなるときがある。
例えばキーボードの予測変換に、ほしい言葉がみつからないとき。
例えば電車で、向かいの人とやたら目があうとき。
そんなとき「僕は変なのか?」とおもう。
そして自分が世間からどれだけズレているか、という基準を数値化でもして見せてほしくなる。
きっと些細なことだろう。自意識過剰だ、という人もいるかもしれない。
でも僕の彼女は違う。
「嬉しいよ? 『変わってるね』とか言われるのって」
たまにそういう話をする。
彼女は変わっていること、変であることへの抵抗がないらしい。
そう言われれば、僕はどちらかというと普通でいることを目指しているように思う。
文を書いている、というのも大きな要因かもしれない。易しい言葉、わかりやすい単語、短い文。そういう基準に照らすことは、なるべく多くの人に届けるために重要だから。
自分でも理解しがたい性格をしている、という自覚のせいもある。
負い目、とも言えるか?
だからこそ、がんばって普通の方に寄り添わなくてはいけないな、という感覚が生まれるのだと思う。
「だって人それぞれじゃん、そんなの」
彼女にそのことを告げると、そう返された。
「変わってていたいな、と思うよ」
どうやら彼女のベクトルは、僕とは逆にはたらいているらしい。
先に言っておこう。
僕は彼女が好きだ。愛している。
だから理解しなくてはならない。
そのためにあれこれ考えることは必要なことだ。
だからこのことについても考える。
変わっていたい、ということはある種『変な方向にも自分から向かって行くことができる勇気』とも言える。
例えばここに、ピンク色が好きな子がいるとしよう。
とても派手なショッキングピンクだ。
カービィも裸足で逃げ出すくらいの。(もともと裸足だ)
母親は赤ちゃんの顔色を、敏感に見極める能力のために女性はピンクに愛着を覚える、とどこかで見たことがあるけれど、これはそんな次元じゃない。
この顔色の赤ちゃんは、すぐに医者に連れて行った方がいい。
そんなピンク。
それは世間一般の常識に基づけば、充分『変』な領域になるのだろう。いや、まだ好きなだけならいいかもしれない。
でもこの子の場合、それを病的なまでに集めている。
服は上下、靴、靴下、下着、それを洗う洗剤、髪、シャンプー、剃刀。
ひょっとすると歯磨き粉までピンクなのかもしれない。
自室の壁紙は自らピンクに貼り替え、本棚にはピンクの本を選りすぐって並べている。
彼女の中ではショッキングピンクの中でも、明暗と濃淡があり、それは完全に調和しているらしい。
そんな人物を目の前にして、僕は正気でいられるだろうか。
どうも自信がない。
でも彼女は、すんなりと受け入れてしまうのだろう。
「その人の個性じゃん」と笑って。
それは地味な服を選んで着るような僕にとって、とても素敵なことに思えた。
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