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芋雑誌を作り中🍠 IMOLOGIE



動画版🍠






下書き

健康は足裏から


足裏の神秘

 

足の裏というのは見過ごされる。足裏は二足歩行の動物にとって直立する際に最下部に位置する。この意味に於いても極めて重要なもののような気がしないでもない。

道元禅師は「脚下照顧」という言葉を残されております。私のよう大馬鹿者はこれを字義通り、リテラルに受け取ってみる。芋づるに繋げるならば「悟りは脚下にあり」。

悟りは足裏にある。そんなばなな。然し、足元、足下というのはおいもしろい言葉である。

また、この美しきアーチ、この美しき骨によってこの身体を支えているなんて何と神秘的なのだ。身体は芋流体的であり、未だ固定されることなき體。

また、一六0腸年に1人の芸術家であるいもげんからは言う。そこでは闇と光、光と影は芋蜜に溶けてしまうような美しき足裏を創り給うた芋神の芸術性を讃えたもおいもます。いやもっと深掘れる、深惚れるテーマであるか…

 

おっと筆が走りすぎた。

 

締切に追われてもいないのだが、一刻も早く焼き芋を食べたい為に急いで原稿を書き終えねばならぬ。

 

 

足裏に意識を向ける

 

禅では足裏で息をしろと言う。私のような足が臭い男としては大変躊躇する行為である。いや、そういうことではない。物理的に不可能である。

そういうイメージをしろということである。実際足で呼吸をしているようにすると、明らかに血流、体温、身体的なレヴェルで様々な変化が生じる。血これは現代のパラダイム、たとえば心身相関的な図式においても十分許容可能な現象であろう。形而上的な概念を持ち出すまでもない。

足がぽかぽかしてくる。まるで焼き芋のようだ!動脈血がどっと根に流れ込み、芋は脈動する。暴走する頭は落ち着きを取り戻し、また新たな一歩を踏み出す。

この芋畑の上、これは人々にとっては小さな一歩であるが、芋芋においては大きな一歩なのである。人類は未だに他星にその足裏をつけたことはない。然し、現にあるこの地球の美しき大地、畑の土を噛み締めて生きていたいものだ。

 

 

眠れない夜に

 

司馬遼太郎『竜馬がゆく』において「眠れぬときは、頭をからっぽにして足の裏で呼吸をするんじゃ。」とおりょうさんに言うシーンがある。実際これですっきり眠れるのである。足が冷え冷え冷え症では深い眠りはやってこない。

因みに龍馬という男、グラヴァーと連んでいたとか、金の亡者だとか一部では悪名高き話などがされるのであるが、少なくとも最後は確実に日本の為に行動をしたと思える。彼は暗殺されてしまったのであるが、その原因は何だったのか。薩長同盟は大きな出来事だったのかもしれない。想像でしかないのだが、私も彼に見習い動き回り、頭をからっぽにして足裏に答えを聞いてみる事とする。私も自らの姓故か、小学生の頃から武士の生き方に学んで来たものが多い。彼らの立ち姿…麗しきかな。

 

立ち方

 

編集長のいもげんはヨガ講師の資格を持っているのだが、ヨガのアライメントに於いては

拇趾球、小趾球、踵の三点。

または、四箇所にわければ踵に関してはinner、outer。足裏の意識するポイントはこのように説明される。

資格ヨガ、ヨガと言われるものは顕教的である。元来芋蜜教徒の私としては退屈であった。現代の所謂ヨガは新しいカテゴリであり、歴史は浅い。私は頑固親父的な要素が強い為ここは区別すべきだと考える。然し、解剖学的、生理学的な視点をしっかりと取り入れ科学的に説明するということに尊敬の念も抱いた。従って、私もバランスよく共有度を落とさずに伝えていきたい。

処が、現代人の多くは身体の使い方が雑であり、四点も指摘されると途端に困惑する。また、踵という概念が変容しつつある。説明が難しい処なのである。

私は「一点」だけ伝えれば良いとおいもます。

脛骨より、内踝より垂直に下ろした一点、地面と踵の接地面。これは物理的な感触というより、抽象的な位置ということになる。ここに集注すべし。余計に困惑してしまった方は無視して構わない。単に気軽に意識してみるだけで良い。物理にこだわりすぎると、それは曲がるし、足裏が頭頂に当たってしまったり、二本の交わらぬはずの脚が交わってしまう。途端にわけがわからなくなり立っていられなくなる。

 

この足裏をしっかりと意識し立つということは根をはるということであり、いもの理に合っている。極めて合理的である。根をはりそこからつるが伸び、花が咲く。

貴方の美しき花が咲きますように。

以上、芋蜜狂徒より

 

足裏を深掘り、芋づる式に拡がっていった。足裏には悟りがあるのか。私のような凡夫には何もわからない。

しかし、頭に血が上りすぎている我々。アーシングではないが、時に土を感じてみても良いのではないか。

読者の皆様の健康、ほくほくを祈っております。

あれ、何の話をしていたのであろうか。










下書き

 

不純な数学?統計学

 

電車での出来事

 

一昨日、私は電車に乗っていた。右前方に3人グループの男性たちがいた。その中の1人がこう発言していた。「自分のいちばんの理解者はAmazonかもしれない。本当に良いタイミングで来るから毎回買っちゃう。」と。「ビッグデータ時代だねぇ。」ともう2人のどちらかが発言。

まあ、Amazonくんの分析は凄いという事だろう。Amazonくんはどうやら家族、親友よりも自分の良き理解者なのであると。(まあ、最近の家族、親友も空っぽなものが多いが。)

統計学…

ところで私は統計学が性に合わない。あまり好きではない。その理由の一つに、大学の授業で手計算でめんど〜な計算をやりまくって嫌気がさした事が挙げられる。公式を覚えて計算しまくり…。あぁおいも出したくもない。そして他に理由を挙げるならば、やはり私は人間であるからだ。

 

統計学って何?

今回は統計学について深掘っていきたいも。

謎の存在Wikipediaによれば

 

『統計学(とうけいがく、英: statistics)とは、統計に関する研究を行う学問である。経験的に得られたバラツキのあるデータから、応用数学の手法を用いて数値上の性質や規則性あるいは不規則性を見いだす。統計的手法は、実験計画、データの要約や解釈を行う上での根拠を提供するため、幅広い分野で応用されている。』

 

とされている。

昔から統計学のようなものはあったようにも思えるが

ドイツ国勢学派、フランス確率論、イギリス政治算術派などが始まりにあたると言われる。

これらがまとまって統計学となる。これで学となった。

記述統計学と推測統計学

 

基本的な用語を確認しておきたいも。

統計学(数理統計学)は①記述統計学と②推測統計学に分かれる。

記述統計学は沢山データを集めると現象をより正確に記述できるというスタイル。焼き芋を沢山食べれば良い焼き芋を見極められるかもしれない?

推測統計学は確率論をうまく使って、少ないデータから多くの規則を発見せむとす。こちらはフィッシャーさんが創始者でありかなり有名な方である。

余談であるが、最近のテレビでとんでもないアンケートを観た。一部しか見ていないため正確な情報ではない可能性が高いし、抽象的に書くが、中々大きなテーマについてサンプル数100で国民全体の意見を結論づけているものがあった。映像を観るに東京近辺の人たちだけに聞いているし、同じような見た目、しゃべりかた、エクリチュールの人たちばかり。(こういうこと言うと怒られる。)推測統計学?のお通りだ…。私はテレビは殆ど観ないので昨今のテレビはどういうノリなのかは知りませんが、家族がテレビをつけていると一緒に観る。中々苦笑いな内容のものが多い。精神衛生上テレビを観るより本を読んでいたいものだ。これならおばあちゃんの勘の方が頼りになる。おばあちゃんの話を聞いたり、故人の言葉を読んでいる方がマシな人生を送れそうだ。

統計もきちんとしたプロセスで芋を焼いているか気をつけなければならない。

 

テクノロジーの破壊力

 

60年代、70年代以降コンピュータがハード面で強くなってくる。これは人工知能の分野などでもそうであるが、テクノロジーが追いついて来ると夢物語も急激に実現されてしまうようだ。

コンピュータと統計学が最強のタッグを組む。これで複雑な現象もかなり正確に捉えられるようになる。

現代ではビッグデータという言葉。統計学という言葉も流行っているように思える。先ほどのAmazonくんの話もそうだ。私の焼き芋の好みももしかしたらAmazonくんは知っているのかもしれない。怖い話である。

統計学は今や経済、金融、経営、マーケティング様々なところで存在感を発揮している。私の頭の中もすでに侵されているかもしれない。

人間は過去の住人であるか

 

私はぶっちゃけてしまうとAmazonくんを使っている。しかし、今のところAmazonくんのおすすめを買いたいと思った事は今のところない。日々反省日々整腸しているからであろう。もしくは単に天邪鬼なのかもしれない。

 

しかし人間というのはどうやらそこに落ちている石ころのようなものではない。この石ころは単純な物理的な石である。人間には意志がある…。石にも魂があるとか、パワーが宿っているという人を否定するつもりはありませんが。この目の前の石ころ。実に綺麗だ。これで石焼き芋を焼けるかやってみたいところだ。

 

処で

この雑誌にも芋占いが掲載されている。(まあ、私は占いというものを信じてはいないのだが。)

しばしば「占いは統計学」という人がいますが、私はそうは思えない。人間は過去を生きているわけではない。人間はもうちょっと巨大であり、豊穣なのである。時間について永遠の謎である。少なくとも深なる時間については言語で記述できないと言えよう。

話が逸れてしまった。私は何も考えずに書いている。芋づる式に話しがつながっていく。

 

おそらく統計学的には私は神秘家、似非占い師、スピリチュアリスト、オカルティストのどこかへ分類されてしまうかもしれない。

マッドイモニストと呼んでもらえやしませんかねぇ。

 

外れることがある

 

何事もわからないことがある。経済の予測もかなり外れる。統計学を駆使しても点と点が一致することはないのである。近づけたとしても届かない。まるで呪術廻戦の五条先生のようである。今後の世界も予測不可能なことが起こる。統計学はあくまで不純な数学である。統計学を盲信しすぎるのは困ったことである。

う~む…。というか最近の世界というのは人為が働きすぎている。日本人は目の前のもの、既成のものを自然法則的なもののように受け止めがちだ。作為の契機の不在、大局観のなさ、一神教的な神と人との対比など近代における重要な、都合の良い態度を持っていない。良くも悪くも、だ。

いや、今回の話的には日本人はおいもしろい。矛盾を含みながら言外に優しく引き釣り出すような芋蜜川の音に耳を澄ませれば、焼き芋の方向を感じる。

アラン・ケイは言った「未来を予測する最善の方法は、自らそれを創り出すことである。」と。

我々は人間であるのだ。過去を生きることは出来ないのだ。我々1人1人に力があるのだ。我々には今しかないのだ。

 

最後は芋蜜狂徒になってしまった。

 

私が不純であったことを謝りたいも。しかし、我々は人間であり、現実は豊饒であり、思ってもなかったことも起こり得るのだ。二人はこれ以上近づけない。それがまた二人の距離を縮めるのである。マロンチックで複雑な世界だ。

 


 








AVはなくなる?

下書き

AV廃止を阻止

先日、某駅前でAV新法を考え直し、AV業界を崩壊の危機から救いたいという運動があった。内容に関しては詳しく触れない。業界の実態は知らないが当事者の方々の納得感ゼロの珍法があってはならない。(因みにAVはアダルトビデオのやつです。)

また、話を芋づる式に拡げていきたい気持ちがあるので、エラーは勘弁して頂戴も。

最近、AV業界への非難も激しい。「性の商品化」だとか、「女性は搾取されている」とか。「AVが良くない思想を植え付けている」とか。(性に関する問題に拡げすぎることは控えたいも。)

一方、当事者のAVの業界の人は「勝手にそんなこと言わないでくれ。」、「仕事を奪わないでくれ。」等々。まあ、一言に、この文章量でまとめられるようなものではない。

これは難しい問題である。

う~ん。

男性の私が何を言っても微妙な記事になってしまいそうなので、女性同士の関係をイメージしながら書いてみたい。

芋長明といったところか。

ちょっと過激な自称フェミニスト(この類の人はフェミニストと呼べない。)の人を見つけたのでそれを交えながら話そう。おそらく尻滅裂になるわね。

あなたはこども

性の商品化の「被害者」とみなされている方々は、自分を「被害者」だと思っていない。

心優しき自称フェミニストは「あぁ、可哀想に。自分が騙されていることに気づいていないなんて。男の論理に、男の権力に、猛獣の男どもに良いように利用されているのだわ。」とか言うかもしれない。もっと情緒的なルサンチマンとかそういうものはここでは議論しない。あっ。

気を取り直して。適応的選好形成Adaptive Preference Formation[1]、ジェンダー論を歪曲して持ち出し説得する。(私も他人のこと言えない。)「私が教えてあげなければ!あなたは騙されているのよ。無知なのよ。真実はこうよ~」と。

娘からすれば、まるでパターナリスティックお節介お父さんのようにも見えなくもない?

インドのカースト制

処で、インドではカースト制が続いている。(唐突に芋づる式に繋がった。)日本人としては「可哀想だ。生まれた頃から階級が決まっている。これは理不尽だ。」と思う人が大半だ。そういえば、ネオコン的な狂気は現代でも存在感を放っている。日本も日本版自由、平等、民主主義を最高価値として無批判に自明視しているところはある。もちろん、近代の良き遺産は大事にしなければならないが。

ヒンドゥー教では輪廻転生思想が大きな力を持っている。輪廻転生に関しては無記としたお釈迦様に私は同意するが、インドのカースト制度についてもう少し深掘って行きたい。

カースト制は社会の秩序形成にとって効果的である側面も多い。また、子どもの頃から、そのように教えられて育つため、ブレない信仰心が彼らにはあるだろう。(そして、それは彼らの精神を安定させ、幸福感に寄与しているかもしれない。)。ブータンも輪廻思想ありませんでしたっけ。確か。教祖様とやらは「輪廻転生は信仰心ではなくて、輪廻転生は実在であり、我々のような感性、霊性が鈍った人には見えないのだ。」とか言うかもしれない。まあ、知らないが。

相対主義的な濁流に飲まれてしまいそうである。

インドではお金を寄付すると怒る人がいるという話を聞いた。良き来世の到来を邪魔するなと。この時代においてもだ。然し、彼らは適応的選好形成によって盲目なのであると一言で片付けることは出来ないのは確かである。

因みにインド映画『きっと、うまくいく』を昔観て大笑いして、大号泣した記憶がある。どんだけ踊るねん笑

女性を考える

正直、AVの問題に関しては、論理的に考え、しっかりとした手続きを踏みながら合意形成をしていくしかない。それが社会だ。既に男に侵されていると言われるかもしれない。こんな雑誌は燃やされてしまうかもしれない。(どうせならそれで焼き芋を焼いてほしいも。)

私は男性も女性も良くわからない。究極的にはそれらが存在するのかもわからない。皆違う。

私は生物学上、男性ということになる。私はAVを観て自慰行為をすることに魅力を感じない。そうだ!リアルこそ全てだ!(失礼致しました。)世の男性は毎日、自慰行為しまくったり、ムラムラしまくったりするらしい。年内には何十回、何百回と射精している人々がいるということになる。(衝撃的な事実だ。)同性の友人たちと話していても、共感出来ない部分が多い。殊に性的なことに関しても、私は世の中の男性もあまり理解できていない。(然し、明日にでもAVを借りて、久々に観てみようと思う。)バタイユの本を小脇に抱えて、国を憂いながら、AVを観ようか。

私はもちろん女性も理解できない。これは当然であろう。女性は存在しない。(ラカン的?)(怒られそう。)女性は神秘である。女性は女神様である。

私は16世界の住人である。

私こそ、深のフェミニストであり、天才的オナニストであり、ナルシストかつファルシストである。?

私はファルスやリンガという言葉を用いたり、ほくほくヨーガについて言及している。なので男性原理タイプなのかと勘違いされそうですが、私はアイロニストであり、天性の芸術家であり、マッド・イモニストである。さつまいもの性を調べてみなさい。それに学ぶのだ。(ただ、ふざけているだけです。)

しかし、ワシは男性原理はあまり肌に合わぬのじゃ。

処で芋長明の設定を忘れていた。移動中に書いているから勘弁して頂きたいも。

 

おやおや

あそこで水を飲んでいる鴨のちょめちょめはどっちであろうか。

いやいや

良く見ると、実はあれはサイボーグなのか。

補足 コラム

念の為。私は輪廻転生とか、カーストとか肯定していません。奇をてらいすぎて廃版になったら意味がない。私は過去に唯識やヨーガなどにも言及しているため、読者の方に誤解して頂きたくないから書く。私の認識では唯識に関しては、輪廻無記と様々な議論を統合して見事に体系化されたものだと認識している。唯識に関しては偉い学者さんに「リテラルに読めばこれは輪廻転生肯定です。」とか言われたら何も言えない。私には学がない。IQ16くらいだ。

コラム腐葉だったかしら。良い感じの流れだったのに、話の腰を折ってしまった。話残しがあったのだから仕方ない。

もう少し続けよう。書き出すとエンジンがかかってくる。

痛たたたたた。(尻滅裂拳)。私は現在、腰を痛めている。いつも本を10冊くらいリュックに入れて、長距離を移動する。二宮金次郎に憧れているわけではないが。その荷物を背負いながら走っていたところ、赤ちゃんとすれ違った。目が合って可愛いなぁと思っていたら、足を滑らせかけた。気が抜けていた。重い荷物のせいで遠心力が凄まじく少しだけ痛めた。(因みに、私は小児性愛ペドフィリアとかではない。子どもたちの笑顔を奪うような行為は断じて認められない。)

腰が痛いも。これは前世でやらかしたせいであろうか。腰の痛みは前世で性的な悪行をなして、悪業が私にやってきたのか。まあ、そんなことはわかりません。少なくともこの我があの世にそのまま行って転生して…とかは信じられない。死んでまでこの我にしがみつくのは不可能だ。腰が痛すぎてすぐ手を離してしまう。

 

「好きなようにやれ!

そして俺に指図をするな!」

「愛するって決めたから愛して。そう信じるって決めたからもう信じていくだけ」

 

UVERworldの曲を聴いて眠りにつかむ。



[1] 適応的選好形成:元々、J・エルスターが功利主義批判に用いた用語。イソッ プ寓話「酸っぱい葡萄sour grapes」の狐のように、欲しいものの獲得が不可能と分かると、それに対する欲望が無意識的に消えてしまう現象。













さつまいもご飯

下書き

レシピ

米、焼き芋、サイコロ状に切った生芋、天然塩、はちみつ、シナモン 全て適量。

最後にゴマを振りかけてもよし。

これらを炊飯器に入れて楽しみに待つ。

シンプルであるが、体も心も悦ぶ素晴らしいご飯だ。本音は味重視である。

個別的に食材について言及することとする。

米は白米を使う。私は玄米を好むがここでは白米であろう。白米は大変なご馳走であります。

精製された穀物というのは血糖値スパイクを打ち込んできて顔面にヒットすると顔がパンパンになってしまうという噂。精米の過程で玄米から食物繊維、栄養分を多く削ることとなる。然し、白米の方が物理的に美味しい。(因みに、米は形状や成分から他の穀物と比べて血糖値上昇が緩やかであるとか。)大変なご馳走である。

そういえば、ファクターXであったか、Xファクターであったか、Covid-19に対して日本人が極めて強い耐性を示した時に「コメ」が大きなファクターなのではないかという話もあった。その後の情報は追ってないが、さすが、神の目から生まれし米よ。(スサノオに食べ物を求められたオオゲツヒメはケツから食べ物出したりして、スサノオに汚ねぇぞ!と殺される。その死体から、確か、米は目から生まれた。)

私自身、米は腸に良いという実感がある。私は、自分の体で人体実験したこともある。その中で、米は活力を与えてくれるし、穀物の中でも大変私の体に合っているという確信がある。同じ精製穀物でも小麦は私の体に合わない。

そういえば、こんなことをおいもだした。ニキビに悩む知人に対して、小麦を一定の期間だけやめて米にしてみたらという提案をしたところ圧倒的な改善が見られた。(これはuniversalなものではない。皆体が違うのだから。それぞれが自らの体と向き合い深掘る他ない。)

 

さつまいも

芋は焼き芋を少し入れて、さらに生芋を入れる。これはやってみてのお楽しみである。しかし、あまりに柔らかすぎるような焼き芋を入れるのは微妙なところだ。最近では溶けそうなほどねっとりな焼き芋があるが、それを使う勇気は出ない。炊飯器を開ければさつまいもの芳香が漂い芋苗へ誘われ、そこは無重力空間となる。

 

天然塩

塩は天然塩を使う。減塩という言葉が流行っている。高血圧だから塩を控えているとか。以前、塩分ゼロの料理を子どもに食べさせている有名人がいるという話を聞いた。現代では、1日の食塩摂取量は10g以下が適量とか言われている。血圧は130超えているとまずいとか。誰が決めたのであろうか。

天然塩と食塩は違う。食塩は特殊な製法で精製する精製塩。天然塩は天日干し、または単に煮詰めるなどシンプルだ。食塩はミネラルが殆ど捨てられる。天然塩にはミネラルが豊富である。過敏になるのはよろしくないが精製されたものというのはやはり注意が必要である。

また、自ら己の體と向き合うことこそ重要である。誰も責任はとってくれない。

はちみつとシナモン

これは良く使う組み合わせである。これは言うまでもない。はちみつ、シナモンは偉大だ。科学的。またアーユルヴェーダ、漢方医学などでも言及されている。しかし、市販のものとそれらが指しているものが同じなのかは不明である。精製された白砂糖よりはちみつを使いたいものだ。精製アンチではないが。はちみつと芋蜜を混ぜるという面白さがここにある。

胡麻

大学芋にかけるのは黒胡麻か白胡麻かで16時間悩んだこともあった。さつまいもご飯はいかに。健康オタクの人はポリフェノール、アントシアニンの含有量で即決出来るかもしれない。情報のエントロピーを下げていく必要がある。最終的にはあなたが決めるのだ。惑わされるな!

う~む。最終的にやはりこっちを食べたいからという感じで決定する他ない。

さらに美味しく

以上さつまいもレシピであった。美味しいものを食べるには調理方法、食材が大切となってくるが、食べる側も整えておかねばならない。

健康になれば、味覚も嗅覚もまともになってくる。味は本来、毒を体内に入れないためにある。現代人は毒を美味しいと思っているのか。相当に鈍っている。

然し、毒を時々あえて意識的に体内に入れることはありだ。体を強くすることにはなる。とはいえ慢性的に、毎日不健康な食事をしているのは困ったものである。

味覚をまともにすることでさつまいもご飯の深掘りはさらに加速していくのだ。日々反省日々整腸していきたいものだ。

急に健康の話をしてしまったが、私は少食で偏食であり、良く他人から心配されるのである。まずは自分の健康から。自分の健康には責任を持ちたいものだ。

健康教

健康であればそれで良いのか。

例えばそうだなあ。日本のコロナ対策は我々の未熟さを物語っていた。

自称民主主義国家日本なんて酷いものだ。「不要不急」というわけのわからない言葉が流行り、公共的な市民精神というものも微塵も感じなかった。パブリックマインドゼロの欺瞞に隠れた自己中心性が見える。

不健康な自称民主主義国である。

 

体が健康であれば良いのか。死んだように生きていれば良いのか。

いつの間にか日本人の死生観も腐った。

時にその全体性へと身を晒し、死の方向へ出力最大で向かっていくことも必要なのかもしれない。

最近では祭りもわけのわからない理由で廃止されたりしている。

我々は健康なのか。

 

健康とは何か。

 

健康について考えることに終わりはなく。

食べること

我々は常に命を頂いている。私は食べずに生きられない。私の主食さつまいもを食べるだけでも、数多の微生物を犠牲にし、虫を犠牲にし…相当な数の命を奪って生きている。

私は生きるべき人間か。死んだ方が良い人間か。

この問いはいつも胸にある。

 

誤解を招いたか。「罪はあらじ。」

現代的な罪悪感ではない。純粋な思いだ。

そんなこと言ったら、地球の某宗教家さんたちも、pride greed envy lust罪つくりよ!

 

 

手を合わせる。「いただきます」と唱える。

この肉体が朽ちるまでに何が出来るのであろうか。

 

人類の自殺に全ての生きとし生けるものが巻き込まれる。困ったものだ。

 

私は今日さつまいもご飯を食べる。

食べ終えると、理由もわからず涙が止まらなくなる。

黄金に輝く稲穂の美しきその輝きは私の頭頂から、足元を貫き、宇宙の果てまで拡がっていく。

 

実るほど頭を垂るる稲穂かな

 

「謙虚」の二文字を忘れた時、緩やかな自殺は始まっている。

 

山の高きをもって地の低きにくだる

霊腸類としての役割をしっかり果たさねば。

謙虚に、日々反省、日々整腸。

まあ、難しいものですね。傲慢な未熟者十六の大罪人の私も整腸していくしかないも。

全ての生きとし生けるものたちがほくほくでありますように。 芋蜜狂徒












超いも理論のお便り

下書き

絶対書きなおせ

 

 

おたよりがきた

 

超いも理論は法則か?

 

これは「法則」かと聞かれた

 

おいもしろいご質問です!

 

これを機に深掘ろう🍠

 

超いも理論は法則を記述したのか?🍠

 

私の試みとしては当初は

・神秘主義の復興

・生命の特殊性の強腸

・アンチ物理主義

という意図があった

若芽の至りである

しかし、今回はもう少し大人に考える

 

超いも理論は法則を提示しているのか?

 

まず、法則を定義する

 

腸時空的であると確信され、発見されたもの・・・(🍠1)

 

万古不易、時空を腸えて存在する

 

ここでの時空はどう定義するか

アインシュタイン的な枠組みでよろしいであろうか(私はアインシュタインの言っていることがいまいちわかっていない)

とりあえず物理学的な時空としよう

・湯川秀樹先生の素領域理論では空間の最小単位が定義されている

・プランク長、プランク秒とやらがあるらしい。

 

ベルクソンの時間論はどうか

非常に見事な感じがするが、主観だとディスられてさようなら

共有できるか微妙である

 

まあ、少し面倒くさい

日常的な意味で時空ということでそこまで問題はないだろう

 

また発見されたものという定義を与える

(私は仏陀ではないし、言語に縛られた無明ちゃんである)

 

 

言語によって表現できるもの・・・(🍠2)

 

数式も言語とする

 

次に法則は

 

抽象と潜在と不可分である・・・(🍠3)

 

法則を見出すためにはそれが抽象化されていなければならない

 

・じゃがいも🥔が等速直線運動をしている

・さつまいも🍠が等速直線運動をしている(等速直線運動って言った?)

これらを差別してはいけない‼

 

地球人は「いも」と言われたら「さつまいも🍠」をおいも浮かべる

これは絶対法則にしなければならない(秘密結社いもみなてぃはこの計画を進めているが未だに「じゃがいも!」と答える大馬鹿者が沢山いるm(__)m)(本当はじゃがいも大好きです)

然し、そんな私の浅ましい考えもここでは無意味だ

 

抽象化される中でじゃがいも🥔もさつまいも🍠も退き、いもの中へと潜っていく

彼等を差別していたのは私だったのだ

凡夫なり ?????

超いも理論の海草性と神

 

モデルとは何か?

 

私はそれを説明の目的のために使う

 

超いも理論モデルでは、海草性の視点と、潜在/顕在図式を提示したかった

 

縦軸に「情報量D」と「潜在力G」というわけのわからないことが書いてある

何でDとGだったのか不思議なことに本当においも出せない(若年性アルツハイマー?少し怖い)

 

縦の芳香で超いも理論を味わいましょう

 

最深の根「根源的生命力🍠」は潜在し遍在する

 

根源的生命力🍠は潜在力G、ほくほくがマックスである

 

上に行くほど傾き顕在していく(当初はリンガが傾くとか言っていた)

 

傾いていき、地上に芽を出す

 

というようなモデルであった

 

海草性を持ち込んでいる

 

「和」、「ほくほく」、「潜在」、「隠身」

芋神様∞は完全なる腸和である

 

傾き、分化していく

 

これは芋苗の法則である

芋苗を貫く

 

Meta-Physica

私はあくまで形而上の深い(不快)話をしている。

 

物理的な畑まで扱えるか

物理学的な時間とは何か

 

そこらは物理学の理論に任せる

 

私は寧ろ数学的な可能性として話をしている(別に数式を見事に操れるとかそういう意味合いで言っていない)

 

勿論、現状の物理学に根差した探究が必要である。

古典力学、量子力学、生命力学がある。

 

本音は私は物理学にあまり興味がない。仏理学派だ。(ただ一人の修行者お釈迦様ファンだ。)

 

私の名前いもげんしゅたいんはヴィトゲンシュタインから来ているのであって、アインシュタインから来ているわけではない。(屡、言われる)

 

ちょっと眠くなってきた。何を書いていたっけ。

 

アインシュタインさんの有名な公式に向き合うことをしよう。

E=mC^2 (エネルギーと物質の等価性?)⊿E=C^2⊿m 変化

 

私には基礎力もないため、導出の過程で、理解出来ない。然し、そもそも、この式に私は惹かれない。

 

Meta-Physicaありき。

私はそういう人間なのである。

この式が仮に正しいとしても物理的な畑の外を扱えない。

私はより根っこにある「生命力」に言及している。

 

生命力学は新たなパラダイモへの道筋に必ず落ちているものであろう。

 

物理学の超ひも理論は統一理論になるのは難しそうだ。

M理論、素領域理論など凄いのがあるが難しくて今は分からない。

しかし、私は超いも理論提唱者である。

科学-哲学-宗教、存在論-認識論-意味論を芋づるでつなげるのは自らの深掘りによってか。

待っていられない。明日死ぬかもしれない。自ら深掘る他ない。

 

しかし、その情熱それは冷たい太陽のようだ。

 

あるところまで深掘るとまるで龍のような芋蜜川の流れによって結局流される。

 

それは飲まれるというのとも違う。

また、私は完全制覇、征服、理神論そういう考えが性に合わない。

 

私は殊に「真理」というものがあったとしてそれに向き合うに際しては、統一してやろうとか、記述してやろうとか、征服してやろうとか一切ない。

 

生命がわっしょいしている。そこには動きがある。

 

原理や、法則はちゃんとある。

いもの理がある。

それをおいも出せば、征服してやろうとか一切思わない。

 

生命の豊饒さを目の前に、私も笑いながら、わっしょい音頭を踊るのみだ。

 

わっしょい!わっしょい!

 

超いも理論は根本はお笑いだ。

 

しかし、私の自己満露出狂すぎてもあれなのでしっかり真剣にやる。

 

しかし、大丈夫だ。いもの理は確かにここにある。

 

誰も奴隷や、家来になるために生まれて来たわけではない。

 

 

 

神秘主義っぽさ

アンチ物理主義的になってしまった

 

皆が右に行くとき

私は左にいく?

 

 

 










日本の政治への提案🍠

下書き(後で整理しなさいも)

principal-agent theory

プリンシパル=エージェント理論(りろん、principal-agent theory)以下P-A理論とする。

 

principal(依頼人、本人)がagent(代理人)に委任して何かさせる事。

はるかちゃんはあずまくんに「16分以内に焼き芋を買って来て!」と命じた。あずまくんは「はい!」と言って、契約者にサインし、買いに出かけたのだが、面倒くさくなってしまった。あずまくんはじゃがいもランドで一日中遊んでしまいました。おしまい

 

 

社会契約説は中々日本人には理解されにくいらしくい。私が何人かと政治の話をしている時に思った。(というか、教育って何?)。私から話し出したことは殆どないので、彼らは政治に詳しい方々であったとは思う。然し、ここらへんはニュアンスのズレか。私の話し方が悪いのか。私がまだ大いなる勘違いをしているのか。わからないが、わからない事は書けない。私は自らの現状認識を書き、誰かにボコボコにされるか、同意されるか、焼き芋にされるか以外はない。

 

まあ、しかし、それでは時間がかかる。

ある時。政治学、国際関係論を学んでいた頃。P-A理論を発見!

簡単でシンプルなモデルを持ってきて、語ったら、なんという事でしょう!理解が捗る!

それがP-A理論。

ということで、私は以前からしつこく出すワード「P-A理論」。

今年こそ流行語にしましょう!

 

岸田総理は国民に責任を負うべきか?

P-A理論で考えると、agentはprincipalに責任を負う。

 

議会で寝ているおじいちゃんたちは選出母体に責任を負うこととなる。

 

官僚はどうか。官僚は選挙で選ばれたわけではない。国民に対して責任を負わない。公僕だ。公僕が好き勝手やったら、そこは動物園になってしまう。時が経ち気づけばサバンナと化す。

 

外国はどうか。誰ですか?内政干渉である。しかし、JAPANの場合は独立国としての正統性が怪しいため、正統性はあると言えなくもなくもない。(これについて扱うとめんどーである。)

 

企業はどうか。誰ですか?である。

 

正統性のない人たちには政治に関わらせない事。あなた誰ですか?

 

 

岸田総理はどうか。支持率が下がって大変そうである。昨日、悪口、不幸自慢の掃き溜め某SNSで「岸田」というワードで恐る恐る検索してみた。

すると、「国民から責任をとれ!」、「国民に謝れ!」、「国民のための政治をしろ!」、「今すぐ辞めろ!」と…中々、可哀想な感じである。

 

岸田総理は議会から選出された。

よって議会に責任を負う。ここまでで一旦止めておく。岸田総理はまず議会に責任を負う。

国民に対しては間接的に責任を負う?

大統領制導入すべきか。

 

99のセクハラと民主主義

この記事を書いていたら「99のセクハラ」というインパクトの強いニュースを見た。勿論、私は、人を裁く偉い人ではないし、この雑誌は日記のようなもので、取材はしていない。そのため、テキトーな感想を書くほかない。

詳細は知らないし、99の中には微妙なものも含まれているとも思ったのが現時点での感想である。

 

今回はセクハラ…政治家としての能力の欠如という意味で、辞めさせられても仕方ないという所はある。

 

然し、驚いたのはネット民の考え方。

「こんな奴が政治家だと!上がこんなヘンタイとは!」とか、「ヘンタイは辞めさせろ!」とか、人格に対する非難のようなものが目についた。

 

結構多くの人が、「ヘンタイ→政治家をやってはいけない」という考え方をしている。

 

確かに「ヘンタイ」はハニートラップにかかりやすい…政治家として投票したくない。(海外では1人で行動しているとハニトラにかかってしまう。自己保身のためには自国を売るしかないのだとか。日本側は仕掛けていないのか。)

 

然し、性的嗜好や、内面の部分は自由だ。

例えば、吹雪の中、水着でゴーグルをしながら愛人と焼き芋を食べるヘンタイは政治家ではだめなんですか?

 

政治家に必要なのは政治家としての業務を遂行する能力である。

 

究極的には政治家がクズであろうが、ヘンタイであろうが、結果を残し続ければその政治家こそ聖人君子なのである。

 

日本では、結果よりも心が美しいか、人格に問題がないかで判断する。

 

それで無能で人が良さそうな政治家が跋扈していては意味がない。美しく国が亡びる。

 

また、選ばれた人であるという重みを忘れてはならない。制度、カタチより、大事なのは中身、精神、民たる主体だ。(言い過ぎない。)これはまた今度。

 

儒教、家族類型、民主主義

「政治家は人格的に優れていなければならない。」。そんなバナナ。

これは儒教国ではないか。勿論、日本の儒教は加工されたものである。武士が必死に迷路に迷い込んだり、支配の道具として用いられたり…とにかく、日本版儒教というものはメチャクチャである。日本の仏教もめちゃくちゃだ。滅茶苦茶教しかないのだ。

 

然し、敢えて今の我々から見て日本の儒教っぽさをあげれば、ピラミッド肯定、聖人君子-政治家思想、官僚組織等々が頭に過る。

 

そういえば日本で『論語』をアツく語る系の人はいる。(見たことある。)

偏見だが、やはり上の立場の人が多い。私は『老子道徳経』の方が面白いと思うし、芋源の『芋易経』の方が魅力を感じる。

人が人を治める?

本気でそんなこと思っているならNWOとか、ディープステート(英トラス前首相が言っていた)とか、某団体とか、今流行りの何かであろう。(全く知りませんが。)

軍産複合体、国際金融資本、宗教に関わるもの、王に関わるもの、法に関わるもの等々が徒党を組んでいるのだとかなんとか。

まさに陰謀論、共謀。Conspiracy

まあ、わかりませんがね。

 

話が逸れた。

 

ところで心太。

キリスト教では、こう言う。

「人間はどうしようもない。必ず間違える。」神の下で平等なのである。(これはこれで悲観的。)

今は有色人種で、無宗教を自称する我々も平等として頂けましたでしょうか?

 

日本の儒教っぽさ。

勿論、道徳?そういう視点は必要だ。

然し、初等教育から偉そうな先生様が軍隊みたいに躾ける。どういうことだ。平和主義、民主主義を掲げる国として整合性を取りづらい。

 

私も混乱している。日本は解けないパズルのようである。だが、この矛盾を放置出来る懐の深さこそ、平和への答えなのかもしれない。

然し、やはり忘れてはならない。

政治というのは特殊な畑なのである。私の寝ぼけた発言も無残に焼き畑にされる。

パシフィストは残酷さをもたらすし、お花畑、耳心地の良いものこそ害悪であったりする。

正直、まともな人は政治に関わらない。くだらないと思うだろう。しかし、そういう方々、聡明な方々にも政治に気を向けて頂きたいも。という切なる願い。

 

うむ。近代文明が特殊である。日本人にとっては相性の悪いものも多いかもしれない。

然し、principleを忘れない事だ。

 

儒教のような宗教を軸に政治が進んでいるのだとしたらお笑いである。

 

政治家の資格試験をつくれ!

これは提案である。仕組みを変えましょう。

政治家は能力が重要である。

完璧なgeneralistたることを求められる。

海外諸国では哲学、リベラルアーツ、本物の教養のある人々がやはり政治家にいる。

各国では能力のある政治家を育て、政治が機能するようにする仕組みがある。

日本ではそういう仕組みがない。無能でも人柄、家柄が良かったりすれば漢字が読めなくても英語が読めなくてもOK!

これは相当にまずい。おじいちゃんたちもボケてしまっていないか、時にチェックする必要がある。

 

然し、立法もできず、政策立案もできず、文書も読めず、官僚が用意してくれる原稿も読めず、企業さんたちに丸め込まれ…。

権力のある人々がこれでは困ったものだ。

 

昨今においては、幅広い知識、ディベート能力、哲学的思考、語学力等求められる。

 

少なくとも、立法、政策立案などの視点から、政治家の最低限の能力を確かめるための何らかの試験を課すべきである。

 

まあ、これは妥協案。 続く

 

直接民主性

日本は結果の平等。同一。みんな同じが良いという価値観が強いらしい。

 

ならば、皆で学んで、皆で政治しようぜ。

 

任せて文句を言うだけの自称民主主義国であった我々。

私は未来を観ている。

 

だから、今までの話も実はどうでも良い。

直接民主主義をやるにあたって、次の世代、我々は最高峰のgeneralistであり、聡明である必要がある。

であれば必要な条件は?教育は?

貴方はどう考えますか?

 

ルソーは最低限の人数でやれと申す。

 

不可能への腸選。やるという前提で考えれば見えるものもある。









芋學深究

二〇一五年~二〇二二年

はるか昔

中二病期、混乱期にあったおもいで(黒歴史)を掘り起そう

🍠人間は人間の眼を持って世界を見むとす。しからば、非人間的なものがひとつでも見えているのか。これは認識の問題であろうか。将又。存在論へと浸透する芋問題か。

🍠自己言及性を腸えむとす。だが、どうもその壁は高いと見える。若し、より高度な記述体系があるとしたらば、その道具をもってこの壁を腸えることが出来るであろうか。メッセージが私に届かむことを祈るばかりである。然し、祈ると同時にわが身も消える。祈りが祈りなのである。




🍠言語を持っていない状態を想像(imogine)することは可能であろうか。言語は蔓のように絶えず絡みついて来る。




🍠生まれた時から、無人島にいたら、言語から逃走できたであろうか。否、記憶というものがある限りにおいて、社会はそこに拡がっているのかもしれない。




🍠 今ここに於いてただある焼き芋の強さは、強烈である。視界が開け学び取るOne of 16.  そして、言の葉も静まり、澄み切った芋蜜川の水面にとまり、その「いも」を垣間見る。




🍠我が国の言語は何と不思議なのであろうか。西田幾多郎は私であった。全ての哲学者は私であった。私は誰である。かなど分かりかねる。全てはいもである。




🍠鏡は残酷なまでにそれを映し給う。鏡に土がついていれば綺麗に「いも」は映らぬ。然し実に不思議である。鏡面とは一体何であろうか。私は鏡を観るとき何を観ているのであろうか。




🍠ある者は「死をもって人生が完結するのじゃ。」というのである。生命力の弟子たる我はこれを深掘らねばならぬ運命にある。科学は死に対して定義することが出来ておらぬ。医学、法学、社会的に死体と判断されたものは死体と化す。死というものがありえようか、我の肉体が死体となれば、宇宙は消えるか。そんなことはなかろう。何かが変わるわけでもあるいまいも。



🍠新時代が始まらむとしている。人間が死への不安を失う時、何が起きようか。死への希望が生まれようか。人間は絶えず、歩みを止めなかった。然し、我々は歩みを止めるかもしれない。先のことを考えても仕方あるまい。この焼き芋を全身全霊で頬張らむ。








占いとは何であるか


占いとは 下書き

「占いとは?」と聞かれて、占いとはすなわち統計学。という方は帰りたまえ。この雑誌でも別テーマで統計学について書いてありますので、ご一読を。

 

占いをバカにしてはなりませぬ。統計学と一緒にしてもなりませぬ。占い。それはオカルトoccult(=秘蜜)でありましょう。

 

一応、申し上げますと私は「芋占い」師にて早漏で候。

私は「易占」と「イモリズム占い」をベースとしております。お勉強と直観による深掘りを地道に続け、途中で全て畑に捨ててしまい、しばらく経った時、そこから「芋占い」という野蛮な体系なき体系を収穫するに至った。そんな怪し芋占い師です。(因みに私は占いを信じておりません。)

 

「占い師」と名乗ったり、「占い好き」、「占いをする」と申し上げると何だかネガティブに捉えられる・・・?

 

 

占いと近代科学

占いに関しては、「科学的」ではないから興味ないと仰る方々。又、占いには「天文学的」?で「科学的」な部分もあるから面白いと仰る方々がいらっしゃいます。

 

科学なるものが優勢であります昨今の状況でございます。私もscienceというものを非常に重視しているところでは御座います。うむ。占いがscienceか否か。まず・・・「占いも多種多様で一括りには出来ませぬ。」と一応言っておこうか迷います。(占い業界?から怒られる危険性があるという卦が出た笑)

 

 

では、そうですねえ・・・。占いを現代的な視点から深掘ることとしましょう。

 

 

近代科学なるものは大変素晴らしきもので、それにきちんと根差した状態で生きるのが、我々腸近代人であるとおいもます。

然し、紅はるか昔においもを馳せるに、前近代的なものも馬鹿には出来ません。

 

例えば、始源を考えた哲学者たち、アリストテレスの四元素説。錬金術師。密教。今となっては使えない枠組みでしょうか。(そもそもそれらと融合出来るのかわかりませんが。)然し、妥当性はあるでしょうし、見事な体系とも言えましょう。

現代のようなあまりに細分化しすぎて何が何だかわからないも状態の畑。また、分析のための分析、理論のための理論のようなおかしな劇が繰り広げられているようなところも一部ございます。我々も彼らからの視線を気にするべきです。なんててへぺろ。

まあ、時には、過去においもを馳せて学ぶのも良いかもしれません。

 

例えば、「易」などの体系は誠に見事だとおいもます。干し星、陰陽、五行諸々。簡易かつ豊饒。誠に甘美なり。

 

加工されたさつまいものお菓子を食べてしまうこの頃の私。

対して、古人は自然を鋭い観察眼で観察し、生活世界(フッサール的な意味ではない。)生活畑に根差したいもを持ってきます。簡易なり。

 

筮竹を観て、夜空を見てやはり納得。そしてまた天高く昇る紅天使。口から入り腹に落ちる。そういうものだ。

芋占いと統計学そして時間

「占いは統計学だ」という方がいらっしゃいます。

そうでしょうか?甚だ疑問です。

 

統計学は間違える。どれだけ近づこうが、決してつかまえることの出来ない現実という名の焼き芋。それを統計学如きで、コンピュータ如きが!いもを食べようなど160年早い。人間様をナメるな!

 

失礼いたしました。人間はとある宗教では、必謬的存在。大変罪深き存在とされております。私、いもげん、何と罪深き存在・・・。

 

然し、芋占いは未来においもを馳せるものです。さつまミライがもうそこにいるのです。人間はそういうものなのです。人間にはまだ解明できていない、引っこ抜けない大きないもがあります。

 

それは「時間」です。

 

我々は言語を使います。そして「時間」という何かに騙されていながら、また、何かになんとなく気づきながら、この芋苗の謎においもを馳せます。

 

何が何だかわかりませんが、やはり、人間は過去の存在ではないのです。過去を生きているわけではないのです。(何だか悪徳占い師みたいになってしまいました(笑))

 

然し、貴方も「時間」とは不思議だとはおいもませんか?

時間は貴方を騙すことが出来るかもしれませんが、いもげん程度のクソガキに貴方は騙せません。

 

時間とは何なのでしょうねえ。

⚡🍠💡💡💡💡💡💡!!!!

私は焼き芋があと16秒で焼きあがる予腸を感じた。

占い番組や朝の占い

占いとはやはり、生活畑に根差していて、少なくとも一般ピープルには大変馴染みやすいものなのでしょう。人文科学系の知を借りれば、占いが果たす機能的な役割。予言というものの機能。文学における予言等々、話は拡腸していきそうです。

 

然し、占い讃美歌を歌いに来たわけではありません。

 

そうですね。占いの危険性にも言及しておきたいとおいもます。上手く付き合いたいものです。

 

ところで、私は「ちいかわ」が好きです。ちいかわのうさぎさんが好きです。天真爛漫でとても愛らしい。

 

ちいかわ占いが時々やっています。私は実家暮らしで朝テレビがついていたりします。

 

普段は天気の確認くらいでテレビを観ることがありますが、火曜日金曜日はテレビの前に待機です。

アニメちいかわをリアルタイムで観れる日は必ずテレビを観るようにしています。

 

ところで、ちいかわの人気は迸りすぎているのか。「ちいかわ占い」というものがあるそうです。朝に勝手に占いをされて家を出発する方々。どういう気分なのでしょう。公共の電波でオカルト染みたことを流してよいものか。ちいかわという可愛いキャラクターを前に理性が鈍ってしまうが、やはりそれでも、いや!それ故、占いを公共の電波で流す正当性は如何に。(愛されて続けて来られたのだなあとはおいもますが。)

 

また、先日。最近、お風呂から上がったら、夜に占いの番組がやっていた。家族は何も見る番組がなくてテキトーにつけっぱなしにしていたそうだ。私はその番組が視界に気になってしまった。良く分からないが、有名人?が占いをされている。如何にも胡散臭いのだが、これも公共の電波でやって良いものか。

 

日本人はおいもしろい。霊を信じていたり、「占いはオカルトだ」と言われる昨今においても占いを信じていたりたりたり。これは、良き面もあるが、近代的な枠組みにおいて、公共の電波を使ってこのようなことをやって良いのかは微妙である。

日本は自称民主主義オカルト国家なのは今に始まったことではない。

私はちいかわたちが本当に占いに関わりたいのか尋ねたい。まず、そこが重要である。ハチワレちゃんあたりは実はいやなのではないか。疑問を感じているのではないか。うさぎさんは私のような小賢しさのはるか上空をいく。ちいかわは無知だ。ちいちゃんには何も分からない。それ故可愛いのか。

ハチワレちゃんは強くなりたいと言っていたり、これまでの言動を見るに少し近代人っぽい要素が多分にある。

ハチワレちゃんはやはり違和感を感じているようにも思える。

日本国憲法以後、我々は民主主義国家であり、我々は市民であるのだ。

占いを悪用したり、テレビで放送して良いものかは一度考える必要はある。

 

対米追従versionリテラシーゼロライダージャパニーズは必然的に生まれた。

 

占いとテレビという一見微笑ましいことに関してでも譲ってはいけないものがある。これは議論が必要である。

何故なら、私がもし、占いを見た日に最下位だったら非常に気分が悪い。(私欲、個人的な感情かよ。公共精神の欠片もなし。🙇‍♂️)

 

とはいえ、占いというものが、これだけ、身近で、これだけ残っているというのはやはり注目に値するであろう。

 

う~む。然し、食い物にされる人や、悪徳占い師は実在する。いつの時代もそのような浅ましい人間が実在するものなのか。

これからもそんな浅ましい占い師が存在するのか占ってみたいものだ。

少し言葉が強くなって申し訳ございません。占い師にも沢山素晴らしい方々がいらっしゃるとおいもます。又、良くも悪くも占いをカウンセリング的なものととらえて一生懸命クライエントと向き合っている人もいるそうです。

またそこに踏み込むと話が相当長くなりそうなので、止めておきます。

 

とにかく善く生きるために使えるなら、使うというような姿勢が大切なのではないでしょうか。Pragmaticにrealisticに(軽っ!おさつスナック並みに軽い締め方。)

最後に占い

小畜

読者の方々へ。一つ芋占いをしてみました。

もうすぐ年度初め。(執筆時)


気持ちが焦りやすい。そういう時に焦りすぎてはならない。

春の歓喜の波に乗るのは良い。しかし、焦りは禁物。風のにおい、質感、それを全身全霊で味わいましょう。

究極的には人生に良いことも悪いことも起きません。

よいもわるいもすいもあまいも芋なり。


貴方の情熱、静かな炎。その静かな息が炎を整腸させています。気楽にほくほくいこうぜ!


牡羊座、牡牛座の方はさらに慎重にしていきましょう。(なんて言うと占いっぽいでしょうか。)


根を張る。今生きている。このことに感謝をし、焼き芋を頬張れば良い。なんててへぺろ。 わっしょい!









笑い対談 下書き


いもげん:(笑)今日は笑いというテーマで話していきたいとおいもます。


大佐:なるほどねえ。おいもしろそうだ。



昔の人々の笑い論

いもげん:笑いについてはこれまでに結構議論されてきているところではありますね。確か古代ギリシアの人とか。ホッブズとか。またはフロイトとか。ベルクソンとか…。


大佐:まあ、そうだね。古代においては嘲笑的な意味合いがあったなんていうのも印象に残っている。


いもげん:ベルクソンの『笑い』とかはおいもしろいですよね。私は小さい頃緊張すると機械みたいな動きしちゃうとかあったかも…。


大佐:ベルクソンか。奴は相当賢いが差別主義的なのが気に食わん(笑)。


いもげん:雑誌でそういう発言はやめて下さい(笑)。日本だと寺田寅彦さんとか笑いについて語ってますよね。葬式で笑ってしまうとか…。


大佐:「笑われるもの」があれば納得できるが、どうも厳格な場で笑ってしまってはねえ。

いもげんのにやけ面

いもげん:私も悪気なく常時にやけ面らしいです。小さい頃からそうですね。昔から他人に指摘されます。「何で笑ってるの?」とか、「楽しそうだね。」とか。


大佐:不審者として捕まらないように(笑)


いもげん:「笑い」には対象が必要なのかと言えば、そうではない。楽しいから笑うのでもない。ジェームズ=ランゲ説を持ち出すまでもなくあらゆることは芋づるで繋がっていますからね。


大佐:何を言っているかわからんな。まあ、その方向というものを一方通行にして片方の道を通行止めにしたり、単に生理学的なものに還元してしまうのも笑えない話だ。我々はもうちょっとふざけ倒すべきだ。


いもげん:(笑)。大佐もふざけてるじゃないですか(笑)!


笑いの健康効果

大佐:まあ、いくら笑ったって良い。ふざけていなければやっていられないぜ。


いもげん:そうですね。笑っているおかげか、いつも元気で健康ですね。寝込んだのとかはもう何年前の話か。


大佐:そうだな。笑いとNK細胞の活性には相関があるとかないとか。また、脳にもなんちゃらとか。然し、こういうデータはひっくりかえりそうで怖いからなあ。または医学的、そして局所的な枠組みに基づいて判断するのもなんとも言えぬ。まあ、しかし、「笑い」が我々にもたらすメリットは肌感覚で感じるね。


いもげん:そうですね。ラフターヨガとか、笑いヨガとか一時期流行ってましたよね。


大佐:伝統と結びついた。これはおいもしろい。まあ、呼吸とか。身体全体の繋がりとか。またもっと幅広く精緻な枠組みにおいてみると少しは説明できるかもしれない…。というかそもそも、ヨーガの目的は健康になることじゃないだろ(笑)


いもげん:まあ、笑ってて気づいたら解脱してたら笑えますよ(笑)。あり得なくはないです(笑)。


大佐:それはおいもしろい(笑)。まあ、私は頭固いから何とも言えんがね。でもねえ、笑顔な人、健康な人が増えるだけでこっちも笑顔になっちゃうよね。


いもげん:良いこと言いますね(笑)


笑いと社会

いもげん:逸脱や、馬鹿やったりすると社会から笑い者にされますね。いやだなあ。私は嘲笑されるのは怖いです。


大佐:なるほどねえ。社会の支配的な価値観に沿って笑われないように生きるなんて私はその方が笑っちゃうよ。


いもげん:大佐酷いですよ(笑)。なんか意識高い系みたいなこと言いますね(笑)。でも、嘲笑されると「もう笑われないように」と頑張っちゃいますよ。


大佐:つまらないこと言うなあ。笑えないなあ。


いもげん:うん…。やっぱりですね。私個人としては嘲笑とか、差別的な笑いとか、そういうので全然笑いたくない。あまり意識したことなかったけど…。けれども自分がその対象になるのは面倒です。なんか一気にショボい奴認定じゃないですか。急にな此奴にはなんでもやって良いみたいになったら面倒です。


大佐:あ、そういうこと(笑)。嘲笑っていやだねえ(笑)。私も気を付けんと老害と言われてしまう(笑)。



批判と笑い

いもげん:しかし、批判のために笑いを使うのはよくやっちゃいますね。


大佐:まあ、我々程度が普通に喋っても面白くないからね。笑いがないと関心もない。


いもげん:しかし、「笑いにする」となった時、クッションが入りますから、個人的な感情に任せてということは中々ない。公共性を考えたり、第三者のためという理由があったり、目的によって正当性を得ているつもりですが…。時々楽しくなりすぎちゃって結構反省していることがあります。私は他人をバカにするという気持ちは持ったことがありませんが、そう誤解されかねない行為はあったかもしれない(笑)。


大佐:まあ、最近の人、「自分が、自分の」みたいに言ってくるじゃない。結構それを必死な形相で言ってくる。そういう人は笑いの対象にすべきではない。嘲笑、攻撃されていると感じたら可哀そうだろ。


いもげん:「対象なき笑い」が共有されている上での「笑いにする」というのが礼儀かもしれません。私は過去の偉人とか、存命の偉大な方の言葉とかでふざけることがありますが、それはリスペクトがあるからですね。勝手にある程度合意があると思ってやっています。


大佐:今のヤバい発言じゃないか(笑)。世間様の道徳にはそぐわない(笑)。勝手に正当化してるようにみえるとおいもますぞ。お前のひとりよがりだ。妄想だ。


いもげん:まあ、我々、芋蜜教徒ですからね(笑)。まあ、ふざけたおすのが日常です。

結局、笑っていると対象があると思われてしまうんですよ。「笑う側」と「笑われる側」区別、差別。こういう図式にするとあら大変(笑)。で、またこの(笑)がまずい(笑)。

にやけ面、ふざけ癖は損です…。そもそもそんな垣根を感じてませんよ。便宜上のパフォーマンスですもん。


大佐:(笑)。まあ、そろそろ締めようか。支離滅裂。これが我々の日常だけども、笑ってゆるしてほしいものだ(笑)。


いもげん:ちょっと雑誌風にやってみましたが、言いたいこと言えなったなあ(笑)。本当、言葉を紡ぐって難しい。回りくどさはジュラル星人(笑)。


大佐:出たな!チャージマン!(笑)

サポートしてくださる方々、本当にありがとうございます。