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水谷竹秀さんの『だから居場所が欲しかった』を読んで、いまだに常に「ここではないどこか」を探して、今日もこうして書評にかこつけた自分語りを垂れ流している自分を見つめてみた。

誰にだって訳があって、今を生きている。

だけど、実社会で私たちは、それをいちいち口にはしないし、聞く耳を持ってくれる人も多くはいない。

その「私にだって訳があって、いまこうして生きている」という、心の声を掬い上げて文章にしたものが、ノンフィクションと呼ばれる作品なのだと思っている。

優れたノンフィクション作品は、例えば小説と比べても、より生々しく切実で、読者の人生観を強く揺さぶってくるものだ。

そう、まさにこの『だから、居場所が欲しかった』のように。



いい大学を出て、名の知れた会社に就職し、結婚をして子供を持つ。

それが、いわゆる日本社会における「正しい生き方」だとすれば、本書に登場する人たちは、例外なくそこからドロップアウトしていると言っても過言でない。

実際に彼らが「楽な生活」をしているか、「幸せな暮らし」を送っているかと言えば、本人がまずそれを否定してしまうような、そんな人たちばかりが登場する。

中には、コールセンターでの経験を「踏み台」にして、次のステップへと進む人たちもいるが、その人たちにしても、いわゆる「正しい生き方」からはかなり逸脱しているように思える。

でも、当たり前だけれど、そんな彼らにも「私にだって訳があって、いまこうして生きている」という事情があるわけで、本書のハイライトは、まさに著者がその「事情」にグッと近づいた瞬間にある。

あとがきにもあるが、グッと近づいたと思ったのに、後日、「やっぱり書くのはやめてほしい」と断ってくる人も多かったというのが、本書の忖度のなさを証明していると思う。

僕だったら、イヤだもん、こんなに冷静に自分の人生を見つめられたら。

と、同時に、やっぱり水谷さんに、僕の話を聞いてほしい、僕のことを書いてほしいと思ってしまう自分もいる。

ここに登場する人たちは皆、自分の人生を語りながら「わたしの話を聞いてほしい」と叫んでいる。

だとすれば、こうやってインスタに文章を書き散らしている僕も一緒じゃないか、と思ってしまうのだ。



結婚して子供を持ち小さいながらも家を建て不満はありながらもサラリーマンとして保証されている身分である一方、僕は本書に登場する人たちの「現状の自分に対する不安」と同質の感情を常に抱えて生きている。

それは、今の自分は「たまたま」あるだけで、大学卒業して就職どころか就活さえしなかったことや、ふたりの幼児を抱えていながら感情的に会社を辞めてしまったことや、世間的には寂しいでしょと言われる単身赴任が苦にならないことなどを思い返し、本質的には彼らと同じような感覚は今の僕にもあるよな、と思ってしまった。

つまり、常に「ここではないどこか」を探している。

だから、そんな僕を見透かして、妻は僕の「えっと、やりたいことがあるんだけど、会社、辞めていいっすか?」という言葉を、ある時から完全にシャットアウトすることになったよな、なんてことを思い出した。

まあ、妻の不安や不満は、分かっているつもりでありますが。

でも、一方で「誰か分かって」と甘ったれた僕がいて、だから今日もこうして、書評にかこつけた自分語りを垂れ流しているわけであります。

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