見出し画像

朝倉かすみさんの『たそがれどきに見つけたもの』を読んで、本当のリアルは物語の中にはなく、小説はいつだってフィクションだからこそ、僕はいつまでも小説を読み続けるのだと思った。


去年『平場の月』を読んでpostしたときのキャプションを読み返してみる。

いわゆる「30になっても、40になっても、俺、中学生くらいから全然考えてることとか変わらない」問題。

今でも基本的には、同じことを思う。

だけど、同じ著者による、平均年齢五十一歳の男女が織り成す六つの短編を読み終えた今、僕が考えているのは、それとはちょっと別のことだ。



『平場の月』を読んで衝撃的だったのは、五十を過ぎた男女の「ありふれた剥き出しの恋」が美化されることも抽象化されることもなく、淡々と描かれていて、それがきちんと極上のラブストーリーとして成立していることだった。

若さというものを過大評価するつもりはないけど、中年になって思うのは、やはり若いというのはそれだけで、ひとつの大きなアドバンテージだということ。

若い男女が寄り添う、ただただそれだけで、なんというか、ドラマが生まれるような気がするのは、僕の単なる感傷のせいだけではないだろう。

それはなぜかと言えば、彼ら彼女らの人生は事実、「これまで」よりも「これから」が圧倒的に占めているからだ。

自分がまだ何者なのかすら分からないというのは、不安で仕方ないことかもしれないけど、自分がすでに何者なのか知り尽くしてしまった今となっては、かつてのその不安はそれですらドラマの一要素であったように思えてしまう。

二十代前半の青年が四十代の人妻に恋をする物語は切なく美しいラブストーリーとして成立しても、四十代の妻子持ちの中年男が女子大生に恋をする物語は気持ち悪くて企画の段階でボツになるはずだ。

あるいは、中年同士の恋愛といえば、いわゆる不倫の物語を思い浮かべる人も多いかもしれない。

というより、他に何があるんだって話で。

つまり、中年の男女に残されている選択肢の少なさこそ、四十代にはドラマが生まれないと僕たちが思い込んでしまう元凶なんじゃないかなと考えていた僕にとって、『平場の月』の、あの軽やかさは本当に衝撃的だったわけである。

僕の人生にも、この先、まだもしかしたらドラマが待ち受けているのかもしれないな。

僕たちはこんなにも不自由だけど、
同時に、まだまだこんなにも自由なんだ。

なんてことを、思ってしまったわけだ。

とかなんとか、こういうことを書くと「お前は妻子ある身で何かしらの色恋沙汰を期待してるのか」と早とちりする人は必ずいて、まあ、そういう人はこの『たそがれどきに見つけたもの』を読んでも理解不能かと思うので、絶対にオススメしません。



本書に登場する平均年齢五十一歳(←しつこい)の主人公たちは、まあ、どいつもこいつも、見事なくらいにみっともない。

でも、僕は、あー、みっともねえなあと、苦笑いで読み進めながら、どの話でも最後にはちょっとだけ切なくなって涙目になってしまう。

共感なんてできないし、ましてや、間違ってもこれが素晴らしい人生だと代弁してあげることなんて出来ない。

でも、考えてみれば、僕たちは、誰かに共感してもらったり、素晴らしい人生だねと言ってもらうために生きているわけではないわけで。

それでも、SNSでいいねやコメントをもらえたらなんだかちょっと嬉しいわけで。

ついでに言えば、SNSにはとてもじゃないけど書けないことも、日々感じて考えて想っているわけで。

そんな、矛盾した中年のあれこれが、本書の短い(広義の)ラブストーリーの中に散りばめられているのである。

ならば、これが読者にとって「リアル」なのかと言えば、それも違って、なぜかと言えば、だってそこにいるのは「わたし」ではないから。

本当のリアルは物語の中にはなく、小説はいつだってフィクションだ。

だからこそ、僕はいつまでも小説を読み続けるのだと思う。

誰にでも安易にオススメできる作品ではないかもしれないけど、少なくとも『平場の月』を「うわ、エモい」と思ってしまった人や、このpostに何かしら感じるものがあった人には、ぜひ読んでいただきたい作品です。

こういう作品について、呑みながらガハガハ笑って語り合える友人がほしいなあ、と真剣に思ってます。



あいつらが簡単に口にする
100回の「愛してる」よりも
大学ノート50ページにわたって
あの娘の名前を書いてた方が
僕にとっては価値があるのさ

本書は、つまりは、そういうことを、中年の物語として再構築した作品だと僕は思うんだけど、あなたはどう思う?

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?