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一木けいさんの『全部ゆるせたらいいのに』を読んで、感動でも感傷でも感慨でもなく、「安堵」の涙を流している僕がいた。



「時々、結婚する前の千映ちゃんに会いたくなるよ」
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男は「たまには何かひとつくらいゆるしてくれてもいいのに」とぼやき、女は「全部、ゆるせたらいいのに」とつぶやく。

そうした男女の想いの乖離を、恐ろしいほど冷静な筆で描いた作品だ。

寂しいと感じてしまうのは、あきらめているつもりが、まだあきらめきれていないからだということに気がついた瞬間の絶望と希望。

そういう繊細な感情を、様々な角度から映し出した作品である。

そして、また、自分が悪いことも、自分が甘えていることも、自分が逃げているということも分かっているけど、それでもどうすることもできない人間の弱さと哀しさを、過剰なセンチメンタリズムを極力排した文体で切り取った作品とも言える。

前作『愛を知らない』は、評価を保留してしまった僕だけど、本作は一木けいという作家の底知れぬ力量に圧倒される素晴らしい小説だと断言したい。

約200ページの連作短編集という形をとっているものの、後半で描かれる「いびつな家族愛」は、前半の「夫婦のいざこざ」や「ある男女の出逢い」を飲み込んで、人間の生きざまが幾重にも重なった重厚な人間ドラマとして読み手に届くはずだ。

読んでいるだけで辛くなってくる、緊張感を孕んだむき出しの物語であるが故に、文中のある一文で突然、涙腺が決壊したように号泣してしまうことが何度もあった。

にも関わらず、本書を「泣ける」と表現することに、僕は抵抗を覚える。

あの涙は多分、感動でも感傷でも感慨でもなかった。

ならばいったいなんだったのかを考えて、少しおかしな言い方を許してもらえれば、あれは「安堵」だったのではないかと思う。

努力は大抵報われない。
願いはそんなに叶わない。

そして、なにより僕たちは「過ちを犯さずには生きられない」生き物だ。

それでも。

そんな人生にも、「救われた」と思う一瞬はきっと誰にでもあって、本書の登場人物たちにそんな瞬間が訪れたことに、僕は安堵したのだと思う。

「俺は、俺の人生を生きているのかって時々思うよ」という宇太郎の言葉にすべての男子は頷き、すべての女子がイラつく前半から、その宇太郎の言葉に全読者が救われるラストまで、すべてのシーンが圧倒的な息苦しさとそれが故の美しさを内包した、素晴らしい作品だ。

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