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ナイジェリア文学という奇跡─『なにかが首のまわりに』を読む─

夫のガールフレンドのことを知らされているあいだ、ンケムは、居間のマントルピースに飾られたベニン王国時代の仮面の、隆起した、切れながの目をじっと見ている。

「イミテーション」冒頭より

そもそもナイジェリアとはどんな国だろう。
その国名を思うとき、奴隷貿易とか民族紛争といった不穏な言葉たちが浮かんでくる。
そもそもアフリカの国々と文学とのイメージがしっくり結びつかない。

あらためてWikipediaで確認する。
"ナイジェリア連邦共和国(Federal Republic of Nigeria)、通称ナイジェリアは、西アフリカに位置する連邦制共和国。イギリス連邦加盟国。人口は約2億人でアフリカ最大であり、世界でも第7位に位置する"(中略)

"アフリカ屈指の経済大国であり、アフリカ経済の4分の1を占める規模を持つ"(中略)

続く政情不安や犯罪・暴力の歴史を見ていると、とても文学の生まれそうな気配は感じられない。
しかし、

"ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である"(後略)

その記述に続いて、本記事にて紹介したいチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの名前があった。
アフリカの民族のひとつであるイボ人で、現在44歳の女性作家である。

"ビアフラ戦争を背景にしたラブストーリーである2作目の長編『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』(2006年)でオレンジ賞(フィクション部門)を、史上最年少で受賞"Wikipediaより)

『なにかが首のまわりに』は、12の物語から成る短篇集である。
日本では河出文庫として2019年に発売されている。
読書好きの界隈で話題になっているのを知って気になり、ステイホーム中だったこともあってすかさず購入した。

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圧倒。
ひたすら、ひたすら圧倒される。
日本人にとっては非日常的なテーマの数々にも、物語の構成の巧みさにも、精緻な文体にも、経験と叡智の塊にも、視野の広大さにも。
とにかく描写が豊かで細かい。それでいて文体は無駄がなく淡々としているので、ヘビーなテーマも軽やかに調理され、するすると流れるように胸の中に入ってくる。圧倒的なセンスが横溢している。
未知の世界にもかかわらずどこか郷愁を誘うのは、自分が田舎育ちだからだろうか。

冒頭の「セル・ワン」では国政や警察の腐敗に触れながら普遍的な家族のしがらみや若い男性の屈折を鮮やかに見せつけ、持つ者と持たざる者とが結婚したがゆえにもたらされる静かな悲劇の綴られた「イミテーション」は読み手の心の奥に手を入れて揺さぶってくるかのよう。
続く「ひそかな経験」では、小説というものへのアプローチの多彩さに圧倒される。
この精度で、この密度で、作者は最後まで緩急をつけながら読者を揺さぶり続ける。

見知らぬ世界を見せつけようという啓蒙欲は感じられず(これほどの背景を持つ作者ならあってもいいのだが)、むしろ国や時代や文化が違っても変わらない人間の本質を掘り下げようという意図を感じる。たとえば、男児の方が女児より甘やかされがちな不条理。たとえば、スノッブな若い男の子の不遜。たとえば、富める者が貧しき者に向ける慈愛と傲慢。
どんなに悲劇的な経験も泥のような絶望も不平等への強い不満も、ことさらに感傷に訴えかけようとせずに(まちがっても「泣かせ」など意識せずに)描き、提示してみせる。
全体を貫いているのは作者の強靭な精神としなやかな感性だ。

読み終わった後にはもう、読む以前の自分ではない。細胞の何割かが生まれ変わったような感覚さえ覚える。
作者のような視野や精神を自分も持ちたいとせつなく願ってやまない。
そしてナイジェリアの地からこれほどのクオリティの作品が生まれた奇跡を思う一方、飢餓や貧困、紛争の数々がなければ、世界の文学史は大きく書き換えられたであろうことを思わずにいられない。
類まれなる才能が、開花することのないまま今この瞬間も失われている。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは他にも数多くの作品を世に送りだしており、読もうと思えば読める幸運をわたしたちは手にしている。
他のナイジェリア作家にも、そして他のアフリカ文学にも、敬意をこめて手を伸ばしてゆきたいと思う。

蛇足ながら、「ン」で始まる登場人物の名前の多さが日本人には新鮮なことこの上ない。
ンナマビア、ンケム、ンネディ、ンキル、ンワムバ……
人名OKのしりとりをしたら、終わりはないかもしれない。

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