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何のために「英語」を学ぶのか 【伊藤和夫著『英文解釈教室』・原仙作著『英文標準問題精講』】

今は受験指導の講師として、小学生~高校生に対して、さまざまな科目を教える立場ですが、そんな私にも、受験生の頃がありました。

大学受験の時、予備校で伊藤和夫先生の授業を受ける機会に恵まれました。
定員1000人余りの大きな教室で授業が行われていたのですが、非常に人気が高かったので、もう座る場所がないほど、ぎゅうぎゅう詰めの状態でした。
窓の外から立ち見で聴講するモグリの人が出るほどの大盛況ぶりが、今でも懐かしく思い出されます。
伊藤先生の授業は、実に静かに淡々と進められました。
1000人以上の生徒が、誰一人として私語をするわけでもなく、一言も聞き逃すまいと全神経を集中して、先生の授業に聞き入っています。
伊藤先生の理知的でシャープな分析は、評判通りでした。
その予備校では、伊藤先生の授業を受けた生徒たちが、今度は教える側に回って授業をしているそうです。
なかには伊藤先生の授業に感激し、東大の英文科に進学した後、同じ予備校に就職した人もいるということを耳にしたことがあります。
また、J・S・ミルの『自由論』について、本を出している先生もいます。
自分にとって、このように伊藤先生の講義を一緒に受けた人たちは、まさに「同志」であり「戦友」と言える存在です。

伊藤先生の授業を受けた一人として、今でも伊藤先生が著した『英文解釈教室』を英語指導に利用しています。
この本を使って教える時は、教材となる英文の「テーマ」を重視しています。
「数学教育の成否」
「科学における理論と応用」
「科学がもたらす災い」
「核爆発の特異性」
「社会の有機体性」
「倫理学と科学」
など、どれも科学や倫理が扱われている文献ばかりです。

伊藤先生の『英文解釈教室』は、基本的に「構文学習」のためのテキストなのですが、それは、上記のような科学や哲学といった分野の論文を正しく理解するための手段として、構文(文の組み立て方)を学ぶというスタンスで書かれています。
「that節」が名詞節か副詞節か形容詞節か・・・
名詞節であるなら、形式主語か強調構文か・・・
という構文理解も、英語で書かれている論文や文献を正しく理解できるようになるためにきちんと学習しなさいというのが、伊藤先生が伝えたいことなのです。
これは、文学のための英語とは一線を画すものです。
主観性が強い文学は、構文学習のための教材としては相応しくありません。
文学しか知らない人は、どうしても構文理解が甘く、論理性に欠ける傾向が見受けられます。
これは英語の先生の中にもみられるもので、文学を題材として英語を学んできた先生は、自分の思い込みだけで指導している場合があるので注意が必要です。
このような先生は、伊藤先生のように、論理性の高い構文学習をしたことがないのでしょう。これでは、教える側の不勉強と言われても仕方ありません。

英語指導をする時に使う教材として、もう一つのシリーズがあります。
旺文社から出版されている
『基礎英文問題精講』
『基礎英文法問題精講』
『基礎英語長文問題精講』
の三冊です。
原仙作著『英文標準問題精講』として世に出てから、半世紀以上にわたって、〝原の英標〟の愛称で親しまれ、受験生から絶対の信頼を得ていた参考書がありました。この本は、共著をされていた中原道喜先生によって、上記でご紹介したように、現在もタイトルを少し変え、改訂版として出版されています。
「原の英標」は、自分にとって、大学受験の参考書として利用するだけに留まりませんでした。
そこに出てくる英文の内容に惚れ込み、東京の丸善まで原書を買いに行ったことが何度もあります。
この参考書では、バートランド・ラッセルやジョージ・オーウェル、サマセット・モームやヘミングウェイなど、名著ばかりが教材として扱われています。
英語学習が進むうちに、ラルフ・ウォルドゥ・エマソンやH・D・ソロー、J・S・ミルについても、ペンギン社のペーパーバックを買いそろえるほど、のめり込むようになりました。
大学に進み、法学部で学んでいた時も、憲法学を専攻していたこともあり、法哲学やジョン・ロック、J・S・ミルについて読み込んでいました。
ジョン・ロックの自然法思想はバートランド・ラッセルにも影響を与えていますし、J・S・ミルの『自由論』における「多数者の専制」は、日本社会特有の同調圧力の強さと類似するものがあり、その研究は自分にとってライフワークとなっています。

福澤諭吉が、J・S・ミルの『功利主義』を原書で深く読み込んでいたことは有名な話です。
同じくミルの『自由論』は中村正直の翻訳によって、福澤の『学問のすすめ』に劣らぬほどのベストセラーになっています。
ミルが唱えた自由主義思想が、後世の「自由民権運動」に影響を与えたのだろうということは想像に難くありません。

今春、慶應大学の法学部に合格した生徒に教えていたのは、J・S・ミルの『自由論』とエマソンの『自己信頼』でした。
慶應大学の文学部では、授業の中で『自己信頼』が使われていると耳にしたからです。
同様に、H・D・ソローの
『森の生活(ウォールデン)』
『市民の反抗』
オーウェルの
『The English People』
『England Your England』
といった作品が教材として使われているそうです。
この事実を知ってからは、英語指導をする時に、これらの「法哲学」や「政治哲学」の文献を使って、指導するようにしています。
ここでは、「英語」を指導するというより、法哲学や政治哲学を教えることの方に重点を置いています。
法学部を受験する生徒を相手にしているのですから、このような哲学や思想を高校生の時から指導していくことは、その生徒にとっても大いにプラスになるからです。
英語は、これらの思想や哲学を学ぶための単なる手段に過ぎません。

入試問題は、その学校が求めている「学生像」を反映しています。
問題を子細に見ていくと、学校側がどのような生徒を求めているのかがわかります。
大学入試も同じです。
入学した後、どのような能力が要求されているかがわかれば、そのための準備も間違うことはないでしょう。
英語を学ぶ時も、英語で書かれた論文や文献を正しく理解するために、単語や文法を学んでおく必要があるからこそ学習するのです。
日常会話やTVなどで見聞きする1000語ほどの単語だけを知っていても、英語の論文を読みこなせるようにはならないでしょう。
また、論文特有の構文を知らなければ、原書を読み進めることもできません。
大学で学ぶのは、「思想」や「哲学」といった学術性の高い文献です。
英語そのものを一つの言語として研究する場合であっても、会話中心の英語しか知らないようでは、文献に基づいて研究する時に全く歯が立ちません。

受験生の多くが長文読解を苦手としているのは、単語や文法を覚えることで乗り切ろうとしてしまうからです。
これに比べて、英文で書かれている「思想や哲学」自体を正しく理解するようにしていくと、試験では圧倒的に有利な場合が多いです。
英語の学習をしていく中で、同時に哲学や思想を学んでしまうわけです。
これができると、たとえ知らない単語に遭遇したとしても、内容から意味を類推することができるようになります。
これは、思想や哲学を「日本語」で学ぶ時と少しもかわるところはありません。
意味がわからない単語が出てきても、全体の流れやその後に出てくる説明を読むことで、内容を理解できるようになることは、その分野の論文を読んだことがある人であれば、誰でも知っていることでしょう。
書かれているのが英語だからといって、この本質的な部分は変わらないのです。

自分が受験生を指導する時に大切にしていることは、哲学や思想をきちんと理解できるようにすることです。
これは、日本語や英語であっても、はたまた古文や漢文であったとしても、根本は同じです。
日本は翻訳文化が発達しているので、大抵の本は日本語で読むことができます。
それでも、やはり著者本人が苦労しながら紡ぎ出した文章の迫力には、到底敵いません。
これは、日本語で書かれた名作を英訳で読んでみれば、言語によって伝わる世界が異なってくるという意味が理解できるでしょう。

古池や 蛙飛び込む 水の音

The ancient pond
A frog leaps in
The sound of the water.
【ドナルド・キーンによる訳】

Old pond - frogs jumped in - sound of water.
【小泉八雲による訳】

芭蕉が残した名句も、英語にしてしまうと、一流の学者や作家が翻訳した場合であっても、その拡がりや奥深さを伝えるまでには到っていないことがわかります。
これをみると、欧米の作家や思想家、哲学者が書いた著作を、英語のまま読むことの大切さがわかるでしょう。
以前書いた記事でも、H・D・ソローが、その著書である『読書論』で、ラテン語やギリシャ語で書かれた原書を読むことが「本物の読書」であると言っていたことをご紹介しました。
ラテン語やギリシャ語でしか書き記すことができない世界というものは、厳然として存在しているのです。
これは、英語や日本語であっても同じことです。

学問の本質は、人としての品性や品格を高め、磨くことにあります。
そのために、思想や哲学、宗教や倫理を学ぶのです。
世界中にある優れた思想や哲学などをじかに学び、自らの血肉とするための手段として、他言語を学んでいるに過ぎないということを努々ゆめゆめ忘れてはいけないのです。


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