ぶんさんの話

 ”文さん”という人ではなく、”分散”についてのあれこれ。

 ①「表現」の分散 。最近聞いておもしろいなぁと思ったのが、「バントはよく音楽性の違いで解散する」という話に対して、「身近なところで、バンドを掛け持ちでやってる人がいるんだけど、そもそも音楽性の違いでぶつかることはない」という声があった。それは、「自身の試してみたい音楽的表現をバンドごとに仕分けていいるから」だそうだ。一つの場所ですべてを発散させようとするから、衝突し、別れることになる。

 ②「生業」の分散。どれが”本業”でどれが”副業”という発想じゃなく、すべてが本業で”複業”としていろんな生業を持ちながら、お金を稼ぎ、暮らしていくという考え方がある。それは「百姓」的なの働き方なんだろうし、言ってしまえば、昔からあったような価値観でもある(むしろ近代化が職業の細分化・専門家を促してきただけ)。テクノロジーの発達と移動(交通網&コスト)の自由が広がる現代ってのは、どんな複業のやり方があるのか、百姓をアップデートできる時代でもある。お金の稼ぎ口を増やすことは、さまざまな領域の人と関係性をつくるチャンスが広がるということでもあり、裏を返せば、コロナなどのように時代の揺さぶりがあったときのリスク分散もできることになる。

 ③「コミュニティ」の分散。自分が属するコミュニティってのはいくつも持っていたほうがいい。たとえば、家(族)と職場の二つしかなかった場合、自分を知ってもらうための/出せる表情ってのは二つになりがちだ。でも実際には一人の人間でもTPOによって、立ち振る舞いや、表現したいもの、結果、まわりが感じとる表情ってのは変わってくる。嬉しい表情、哀しい表情、ちょっと怒った表情、いくつも表情がある。だから、自分の趣味趣向に合わせて、その表情を出し分けられる居場所を持つこと。

 なんとなくつらつらと綴った”分散”の話。「表現」も「生業」も「コミュニティ」も、なんとなく繋がっている気がしてて、その根っこにあるのは次の考えなんじゃないだろか。

「自立とは依存先を分散させることだ」

 少ない選択肢に縛られてるからしんどかったり、新しい選択肢の発想が見つからなくてアタフタしたり、逃げ場がなく変なことに走ったりしちゃうこわさがある。ちなみに社会学的には「不倫」についても(旦那さん・奥さん以外の)(たとえば月1くらいでランチする程度の異性の友達など)ゆるやかな依存先の分散を持てるかどうかはかなり影響するという見解もあったりする。

 分散させすぎ問題(コントロール、コミュニケーションコスト)は確かにあるけど、一つじゃない、カメレオンのようにシーンに合わせて変化できる自分がいてもいいんじゃないの、と思う。分散できることは、ゆたかさの一つなのだ。

 そういえば、大学同期の中国人の文さんは今どこで何してるんだろうなあ(遠い目)。


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