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性とか、当事者性とか、備忘録。

  違和感について。

 AVにおける男優の一方的なプレイで「嫌々言ってるくせに身体は感じてるんだろ」みたいな発言なり姿勢のある作品(強姦もの)の在り方と、Twitterにおけるグラビア(アイドル)が水着や下着なんかで尻や乳を見せびらかして「こうやっておけば男はいいねとかリツイート、フォローたくさんしてくれるよね」と安いっぽい下心が見えるアカウントの在り方って、どことなく似てる気がするし、基本どっちも超絶苦手なんだよな。反吐がでそう。

 ”性”に対する暴力性というか、短絡的な論理性というか、何にしろ、人間としての身体的な条件反射はしょうがないとしても、心をどこかに置いてきてるような、人間というものを安易に捉えて、煽っては消費してるようなあの感じ。どう考えても苦手なのだ。嫌いだ。

 それと、もう一つ。

 広義の意味で”マイノリティ”とか”当事者性”という言葉に関連することかもしれないけど、「その立場であることをいろんなことの原因に何でもかんでも紐づけちゃう人」ってときどきいるじゃないすか。あれも違和感。

 たとえば、何か問題があったときに、「男/女だから」「ゲイ/レズだから」「外国人だから」という理由が必ずしも妥当ではないこともある。昔、ゲイの知人にアプローチされたことがあるけど、それ以降ぼくが距離を置くことにしたのは、「彼がゲイだから」ではなくシンプルに「人としての波長が合わなかっただけ」だった。その知人が「ゲイだから」という理由に紐づけたかは実際にはわからないけど、自分がその立場を意識しすぎてるがために自分の色を際立たせてしまうことも少なからずあると思うのだ。

 言葉を選ばずに書けば、被害者意識が少々強すぎるんじゃないか(その立場のためにそういう意識にならざるえない状況(諸悪の根源的な構造)があるだろうが)。

 SNS的なフェミニズム的な動きを眺めていても、どこか自分たちの立場を自分たちで浮き立てて過ぎていて、どこか気持ちが悪い瞬間が見受けられるのは、そういうことなんだと思う。本当に”それ”だけが原因なのか? 

 シンクロニシティの寿司職人軸の「それは女だからですか?」のネタには、そういう皮肉がちゃんとなされてるし、しかも女性という立場で女性について突いてるから成り立ってるのかなぁ、と思ったり。チラッと音声でもしゃべったことすけど。

  その流れで言えば、同じ立場の人が、自分よりも声高らかにその立場の扱われ方に声明を出してるとき、どのように感じるのだろうか。たとえば、ボクの場合、沖縄の基地問題についていろいろな声が挙がっているなか、SNSやマスメディアなどで地元の人の強すぎる反対の声がピックアップされるのをみて、「自分は沖縄人だけどそういう感覚持ててないし、同じ沖縄の人でも地域や職業、家族などの要因によって考えにもグラデーションはあるはずなのに、なんで一色単にまとめようとすんのかなぁ。この発言者も、気持ちもわからなくもないけど、その声の上げ方はないぜ(逆に、勘違いしたり、引いちゃう人出てくるんじゃ...)」と思うことも正直あったりする。

 ...と、とっ散らかしながら垂れ流し的に思っていることを綴ってはみたものの、やはりそうじゃない立場の人のことはわからない。ボクはストレートな男性なので、LGBTだったり、女性の心身的な感覚というのは決して知ることはできない。共感なんてきっと死ぬまでに叶いっこないことだろう。口が裂けても「わかります」なんて言えるわけもない。

 だからといって、理解をあきらめてるわけでもなく、”知らないわからないこと"だからこそ、知る努力はせんといけないので、まだ見えてないであろう視点や聞こえてないであろう声を探りながら、また今日ここに書いたことは吟味し直してみたい。

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