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何をしてもしていなくてもどうせ嫌われるのだから

「他人に向けて発信している言葉はすべて暴力」

  #noteフェス 最終日「なんで僕たちに聞くんだろう。」のsessionで、浅生鴨さんが口にしたのは、そんな言葉だった。

 どんなにやさしい言葉や励ます言葉あっても、それを受けとる人にとっては暴力になりうる(その逆もしかり)。自分の言葉はだれかを傷つけるんだと自覚して、浅生さんは文章を書いてるとのこと。

 ふと思い出したのは、過去noteで「だれもが無意識的な加害者になりえる」と書いたこと。

 もう昔のことだが、沖縄出身のボクは、「沖縄っていいよね」とか「地元が沖縄でうらやましい」とか言われると、ザワつく時期があった。相手からすれば何気ない言葉だったんだろうけど、地元がゆえに見えるドロドロ感が見えるボクからすれば「観光で楽しい沖縄しか知らねーくせに!」と苛立ちを覚えたし、沖縄の内と外とで見え方がはっきりと違う光と陰のギャップに小さく傷ついていたあの頃。

 でも、そんなことをいちいち気にしていたら(相手に気にさせていたら)、会話ははかどらないし、書きたいことは一つも書けないだろう。

「誰も傷つかないってのいうのは、何も言ってないことと同じ」

 これも浅生さんがsessionで口にしていたこと。

 「だれかを傷つけるのがこわい」とか、「自分の言葉のせいで他人に嫌われてしまうのが嫌」だとか、いろいろ不安や恐怖ってのはあると思うのだけど、黙っていても何も変わらない。

 おびえて何も言わないと、自分の考えは伝わらないし、そのせいで距離を縮めたい人との距離もあいたまま。仕事においては、何も言わないせいで、まわりに翻弄されて消耗されるってこともあるはずだ。

 それに、何も言わないせいで他人に嫌われることもある。「意見をまったく言わない人だ」「何を考えてるかわからないやつ」「自分の軸がない人」のように黙ってることをネガティブに感じる人だっている。

 何をしても、何もしていなくても、嫌われる。

 これは冒頭の浅生さんの話す「言葉の暴力性」にリンクする気がする。

 ただ明確な違いはあって、浅生さんの話は、発信するときには必ず暴力性が付随する、という「発信する」を前提としたもの。それに対して「何をしても~嫌われる」というのは、「発信しない」ことも含んでいる。さらには、「言う/言わない」「書く/書かない」のように言葉にとどまらない、言動(言葉”+行動”)の話でもある。

 つまりは、「この世に生まれ、息をしている以上、だれかには嫌われるよね」ということ。こうやって綴ってる自分としても、さみしい結論なのだけど...。

 まぁ! だとすれば、意図せず沈黙して嫌われるよりも、意図してちゃんと伝えることは伝えた(表現した)うえで嫌われたほうがいい。

”言いたいことを言えてる人は揺さぶってくる”、というのもあるしなぁ)

 そうやって、不幸中の幸いではないけれど、ネガティブなこともポジティブに捉えて、自分の言葉と行動と付き合っていければいいのかな、と思う。

 そういえば、「上手くなる方法と、強くなる方法」のsessionで、医学研究者の石川さんが「ネガティブな感情もポジティブな感情も、いろいろ行き来でできる人のほうがクリエイティビティと幸福度が高い」と言っていたから、それを良いように捉えちゃうのもいいのかもなぁ。

正しくない日々に 筆を進めたようでさ
それは結局 1つも変わらない ただの退屈しのぎだ

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