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エッセー:五感不満足



痛まない関節を数える

 他の赤ん坊たちがスクスク立ち上がり歩きだしているころ。俺はウルトラマンポーズしかできなかったから、両親はこの子が一生立てないのではないかと心配した。どこかに相談しようという時分、俺はいきなりスクリと立ち上がって歩き出し、若年にして親孝行を遂げた。しかし喋ることはなかった。あまりに言葉を話さない俺は医者に連れられた。その医者は虫の居所が悪く、怒りのあまり俺に不名誉な診断を下した。「この子は脳に異常がある」とカルテに太鼓判を押して悪態の底を打った。以来親は俺を、そういうものと覚悟し育てた。幸いにも家から数分の場所に特別教育を提供している学校があった。俺には、公私共にその道への扉が開かれていた。だが後日、別の医者にかかったところ何も特別なことはなかったようだ。残ったのは、単に俺が変だという事実のみであった。セカンド・オピニオンとは、時に残酷なものである。友人もろくに作れず、人間関係が破綻し、異常な好き嫌いに引きこもり、授業にもついていけない。こんな状態の少年を異常なしと判断する方が、今になっては異常に思われる。そんな子を持った母の心労は計り知れない。なぜなら、家庭には俺のような人間がもう二人(父兄)いたからだ。

 脳の発達の遅れとは相反して、身体の発達は異常に早かった。体重は小学生にして70を上回り、俺の身長は当時とほぼ変わっていない。なのに身体、特に骨は弱かった。うんていから落ちて肩を脱臼、したと思ったらただの四十肩。テニスをやったら膝・手首・肩・ひざを痛め、ついには腰の骨を分離してやめざるを得なかった。デスクワークなんかは地獄で、カーソルを動かすせいで慢性的に腱鞘炎のようだし腰が痛まない日などない。普通に生きていてもすぐに関節を壊すので、今では痛いほうの関節を数えずに、痛まない方の関節を数えている。これを漢文に表した。          

今痛ム関節ヲ数ウルヲ止ム
宜シク痛マザル関節ヲ数ウルベシ

 こんなのは取るに足らない話だ。これからも取るに足らない話だが。


五感不満足

 

 鼻が悪い。昔から慢性鼻炎で鼻水が止まらない。ちょっと走れば喉に鼻水が絡まり、校庭でよくゲロっていた。持久走大会では、それを防ぐためにティッシュ箱を持って走る。毎回ビリだったから、保護者に注目される中「今年のティッシュ箱」をお披露目していた。鼻洗浄やらステロイド?やらよく受けに行ったが治らず、親にはよく「キムタクも昔は鼻炎だった」という謎理論で慰めてもらったものだ。なぜか最近治った。

 耳が悪い。家系的に難聴が多い。祖母は典型的なばあさんで、何も聞こえてないのにひたすら喋っている。元々何言ってるかわからない人だから聞こえたところで関係ない。叔父もその遺伝で超難聴だ。たまに聞こえているか確認してもごめん聞こえないと言って話が終わる。おしゃべりな母のいいサンドバックだった。父も補聴器をしても全然聞こえず、そのせいでクチャラーだ。俺は耳が良いほうだったが、音楽のせいで悪くなった。なんかのライブで音がデカすぎて耳が痛くなり、数分で退出した。それ以来なにかと聴覚過敏になり、後日診断されたのは「音響外傷による低音障害型感音性難聴」。要するに低い音が聞こえにくくなったらしい。男の野太い声なんか聞かなくていいから、むしろ有難い。

 単純に口が悪い。通り過ぎた人間を端から端まで文句を言いたがる。こんな性根は自分でも願い下げだ。捻じ曲がった品性を取り戻す旅に出かけよう。あるいは下顎の前歯すべての永久歯が欠損しているからかもしれない。歯の噛み合わせの悪さから全身にガタが来て、心身のあらゆる不調を引き起こしているのかもわからない。そして根拠もなく味覚障害だ。

 目が悪い。コンタクトをしていたら、網膜細胞が半減していた。完全に自分の落ち度で、1dayコンタクトを取るのがダルくて数日間つけっぱなしにしていたからだ。自戒と教訓の意を込めて、1 dayをa few daysにするにはやめましょうと大々的なキャンペーンを行なった。元々日光に弱く、サングラスを掛ける習慣もなかったので、若い頃は目と頭の痛みが常態化していた。その状態で勉強しなきゃいけないのは苦しかった。ある日サングラスをせずに海で遊んでいたら、翌日自分だけ目が開けられなくなり、以来強い蛍光灯などにも過敏になった。最近に至っては謎の光が見えたりする。時代を違えば何かの教祖になっていただろう。

 心が悪い。高校の時のことだ。閉所が怖くて満員電車でパニクってしまい、一駅ごとに降りて通学したこともあった。それから色々あって、不眠やら何やらで自律神経を失調し、ほぼ不登校になった。疎外感と人間関係で鬱から躁鬱になった。いろんな前後関係は割愛する。一つ言えるのは、ADHDやらASDやら、その気質のある人間にとって普通教育とはなんとも辛い場所だった。その二次障害としてこうしたものが頻発した。俺はそのとき曲がりなりにもエリート(笑)だったので、そこから落下した事実がまた俺を苦しめた。そのうち、他者からの期待にあえて反発するようになった。その頃の自分は、今思えば「退却神経症」というものにかなり近かった。この言葉を知ったのは、奇しくも我が母校が関連した殺人事件だった。

 誰もが完全体で生まれちゃいないが、どうして俺だけがこうもマックみたいに障がいをセットで提供されているのか。俺だけはこの世界を恨んでもいいんじゃないか。その資格があるんじゃないか。そういう風に思う時がある。・・・マジで。結局医学に頼らず、自分で乗り越えるしかないのだった。最後に自分を救ったのはたまたま見かけたこの漫画だった。今読んでもすごいし、本当に感謝している。

社不を地で行く

 そういうわけで会社、休みます。経緯を話すと、4月に新卒で入社して、5月に倒れた。何もしていないはずなのに・・・。4月末から様子はおかしかった。物が二重に見えたり、めまいや吐き気がしたり。はじめは目が変なだけだと思いながら仕事をしていたら、倒れてしまった。今まで体験したことないもので、首の後ろから頭まで血が引いて感覚がなくなり冷えていくようだった。以来めまいが止まらなくなり、リモートで仕事をしていた。そのまま不幸なことに部署移動で対面がほぼ必須になった。職場の会議室でこっそり倒れながら騙し騙し仕事を続けていた。それが祟ったのか、状態は悪化。悪感に不眠、耳鳴りや心臓の痛みがではじめてしまった。無理じゃないと思って無理なことをしていた自覚がなかった。そうして先日、近所を歩いていただけでまた倒れてしまった。心臓を掴まれるような、ココロが吸い込まれて”堕ちる”寸前のところまで行く感覚があった。流石にもう、仕事どころではない。誰がどう見ても限界だった。何もしていないのに。しかしこの「何もしていない」状態に至るまでが、俺にとっては果てしない苦労と、とてつもない困難の上に成り立っていることに(これを書いていて)気づいた。学校に通うことでさえ難しかった俺が、やっとこしらえた普通という聖域を、仕事という追加の重圧が砕いてしまった。そういう風に思えてならない。人には人の限界がある中で、俺にとってのそれは、仕事を始める時には既に目前にあった。ただただできない自分を責めて、心身のサインを無視し自分を虐げる俺の姿は、まさに鬱の最中に俺が行なっていた本心の虐待そのものだった。今の俺には休息が必要だった。

あゝ 皆保険に花添えて

 俺は感謝している。この国の国民皆医療保険制度というやつに。俺がもしアメリカかどこかに生まれていたら、医療費が積み重なって今頃野垂れ死んでいたところだ。今回かかった金額は合計で10万円近いが、これが全額負担だったと思うとゾッとする。この国の、全を一として一を全とする精神によって今俺の肉体はこうして保全されている。今回休業する際の傷病手当も健康保険が出してくれるらしい。俺はそれにあやかって、改めてこの「普通」に感謝し続けなければならない。

 こんなに愛してやまない制度だが、最近この悪用が目立つ。例えば、老人に必要のないものバンバン使わせて荒金稼ぎする医者がいる。意味もなく簡単に保険適用して、なんでもかんでも与えてしまうのだ。実際自分が最近行った自営業のクリニックでも、頼んでないのに無駄な診察をしてきたり謎の治療を勧めてくるところもあった。

 特に老人相手の商売では1割負担で済んでしまうから、とにかく無駄に無駄を重ねたエセ医療が流行る。最近になってやっと老人の負担率が2割に改定されたが、よ〜くみてみると「後期高齢者のうち一定の所得がある人間」に限られている。

 これでは単に一部の老人の医療費をチョコっとあげただけで、根本的な解決にはなっていない。現行制度では、現場で無駄な治療を受けないようにするインセンティブが欠けているままだ。たとえば医者患者間のインフォームドコンセントと同じように、保険制度の限界を認知させたり、より安く無駄ではない治療を勧める義務付けなど色々方法はある。実際、薬剤費が財政を逼迫していることから、薬局は積極的にジェネリック薬品を勧めなければペナルティを負うことになっている。

映画『ザ・ホエール』

 これは自由主義の功罪であろうが、アメリカのフィットネス人口の多さは有名だ。我々も一部これを見習ってもいい気がする。彼らは高すぎる医療費を払うことがないように、適度な運動を習慣化しているのだ。映画『ザ・ホエール』の主人公も不摂生のあまり肥満化し、命尽きようとしても財政的理由で医療を拒否していた。こうした恐怖を少しでも持てば、日本でも各々が運動習慣を身につけて自発的に医療費を削減してくれるかもしれない。あくまでこれは運動習慣を促進したい意図で、皆保険をなくそうなどと言っているわけではない。これは度々誤解される。炎上したサントリー社長の意図も自分の意見に大体合致している。

「病気になってから対症療法をするのではなく、元気でいられるための医療に切り替え、そのための医療制度、保険制度に作り替えていく。ここは民間主導の、民間が投資していく分野で、国民皆保険ではなく民間がこの分野を担っていったらどうか」と語る場面の動画が切り取られ、X上で拡散していた。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/281434

 今必要なのは、下のように老人が自責の念に駆られながら医療を受けないようにする、そんな悲しい社会ではない。イナズマイレブンの遠藤守みたいに「そんなことより、サッカーしようぜ!」といって健康な人間を健康に居続けさせてあげる、制度的インセンティブが必要なのだと思う。

悲壮感漂う意見欄

 外国人の問題もある。以前から外国人が医療ツーリズムと称してタダ同然で日本の医療制度を利用することが問題化していた。特に最近では在日外国人の増加によってその利用方法が広まっており、悪用を目指して来日することもあるという。そうした諸問題の把握自体がまだできていないようだ。今年になって初めて、在留外国人の保険料などの未納調査が行われている。しかもその背景は未納永住者の永住権取消しが今年2月に決定されたからだ。この問題を包括的に解決するには、あまりにも出だしが遅いように思えた。

 この国は、外国人に甘い。日本人が海外に行ったら、豊洲のインバウン丼みたいなことは平然とやられる。日本は逆に制度にタダ乗りさせたり、減税やら免税をして、せっかくのインバウンド客から税を取らずにいる。そのオーバーツーリズムで迷惑を被るのは我々中間層で、得をするのはインバウンド客と経営者層だけだ。何年も負担が増え続ける中で、ここでもまた「ウチに厳しくソトに優しく」してしまう伝統を発揮している。

 要するに、取るべきところから取れていないのが現状の不満の根本だ。成田氏の統計によれば、認知症高齢者の総金融資産が170兆円を上回り、40歳未満の総資産である100兆円のはるか上をいく額になっているという。その割に負担率は現役世代がはるかに高い。インバウンド消費が過去最高の5兆円を突破したというが、果たして我々の生活は豊かになったのだろうか。むしろ物価は劇的に上昇し、賃金は上がらないままだ。その上でオーバーツーリズムのインフラ整備に我々の税金は使われていくのだ。こうした制度的、経済的な負担を負うべき者が負わない限り、この国の他の課題も解決できない。最大の問題である少子化も、大きな部分はこの経済的理由に依るものと俺は考えている。

 この国の、皆に優しいは、自分たちに厳しいで成り立っている。ほぼ障がい者としてありがたい限りだが、このありがたい制度を根本的に見直さない限り、数十年後には瓦解すると思う。そんなことを考えた、誕生月であった。齢二十四を手前にして人生の帰路に立つのは、偉人伝の始まりの予感であると願いたい。


 おわり

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