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不意に知った落ち着ける場所

私は涙もろい。
高校の卒業式は終始泣きそうだったが、泣いていたらダサいと思ってどうにか堪えていた。
ただ、唯一、少しだけ涙が出たのが、保健室の赤木先生に挨拶をしたときだ。

私は涙もろくて、非常に健康だ。
精神のバランスを少し崩して症状が出たり、ニキビが悪化したなんてことはあったが、健康そのものだった。
週6日、部活動で汗を流した。
引退してからも往復12キロの道のりをチャリで爆走し、常に早足で歩く。
部活動には打ち込んでいたからある程度筋肉はあったし、風邪をひくこともあったが、医者に行って薬を貰えばすぐに治っていた。
そんな私が保健室との接点を持ったのは、同級生が怪我をしたことからだった。

高校3年、同級生が授業中に軽い怪我をした。
ちょっと消毒して絆創膏を貼れば済むようなものだったと記憶している。
正直なところ保健室に行った理由とか時期とかは少し曖昧なのだが、赤木先生の困ったような顔を覚えている。私はその表情に、妙に安心したのだ。

赤木先生は40代くらいの女性。肩まで伸びた黒髪には縮毛矯正がかかり、化粧もほどほどにしていた。身長は160センチ後半くらいで、女性にしては大きかった。白色の白衣を着て、たまにカチューシャをして机に向かって仕事をしていた。

私はその後、何も用がないのに保健室のドアを叩いて通うようになっていた。(飲み屋か、と自分でツッコミたくなる)
なんの話をしたか、全く覚えていない。
ただ、赤木先生に会うと妙に安心して、授業や受験、部活などのたわいない学校のことを話し続けていた。
赤木先生はお茶を出してくれるとかいちいち興味を持って聞いてくれるとかでもなく、適度に距離を保ちながら話を聞いてくれた。

今になって保健室に通っていた理由がわかる。
私は大学生でようやく自覚を持つのだが、LGBTQなど性的少数者の当事者である。その自覚に対して、実感も自信もわかず崩れそうなときに”何か”を求めて赤木先生に会いに行っていたのだ。

事実として、記憶は薄いが、何かLGBT関連の本をその場で読んだような記憶がある。レインボーの表紙で、絵本のような厚さの本だ。
同級生にはトランスジェンダーの子がいて、その子のことを話した流れでその本を出してくれた気がする。
自分のことのような、自分のことではないような、そんなふわふわとした状態で赤木先生から渡された本を見ていた。

私の当時の悩みは深かった。
一つ学年が下の女の子と付き合っていたが、部活の後輩で私の彼女とも仲が良い男の子にも惹かれていた。
理解しづらいと思うが、私は男性も女性も好きになるバイセクシュアルで、なおかつ同時に複数人を好きになる複数愛者だ。
当時の私は彼女がいて、後輩の男の子にも惹かれ、なおかつ2人同時に好きであることに対し混乱し続け、全くもってその気持ちを処理できていなかった。

混乱状態を、当時の自分はどう表現をして良いかわからなかった。
だから、例えば
▽友達が侮蔑的に使う「ホモ」という言葉にいちいち乱されて一日晴れない気持ちで過ごす、
▽レズビアンだと噂のたつ女の子2人が一緒にいるところを見るとなぜかイライラする、
▽トランスジェンダーの友達が「おかま」みたいな言葉でいじられていることにモヤつきを覚えて言い返したいのになんて言っていいかわからない
など、感情があっちにいったり、こっちにいったりしながら日々をかき乱されていた。

その混乱はなぜか、周りに当たったり、わざと孤独になったりという行動に繋がってしまっていた。
私の性格的なところもあると思うが、男同士で同性愛者や女性を馬鹿にしながら絆を深めている「ホモソーシャル」な空気を感じたら露骨に嫌悪感を出し友達から離れた。
「ホモソーシャル」な空気になるのが嫌だったから、文化祭とかには積極的にかかわらず、どうにか気の合う友達との時間を優先した。(だからこそジェンダーを女性で生きている友達がホモソーシャル的な雰囲気を良しとせず、私と仲良くしてくれたことに救いを感じていた)
予備校などの集団に入る勇気も気力もなく、自分だけで勉強し、わからないところがあってもどうにかこうにか理解しようとしてもがき続けていた。

自分の気持ちをうまく表現ができないストレスを発散する方法が、自分も含めた誰かを犠牲にすることしかできなかった。
その刃を、赤木先生に向けてしまったこともある。
何でそうなったかわからないが、赤木先生と口論になってしまった。
その時、私はほぼ泣き顔の状態で教室へ帰ったが、「赤木先生がわかってくれなかった」という思いを抱えていたことだけははっきりと覚えている。
赤木先生にだけはこの混乱が、ストレスが伝わると思ったのに、と机に伏していた。

その後、少ししてまた保健室へ顔を出したとき、赤木先生はその喧嘩をうやむやにしてくれた。何かくだらないことを話し、進学先が決まったことを報告し、「おめでとう」と言ってくれた。それだけで私はもう一度、安心することができたのだ。

卒業式。
友達に「ちょっといくところがあるから」と告げ、保健室へ行った。
赤木先生もグレーのスーツに身を包み、ラメの入ったカチューシャをしていた。
私は頭を下げた。「本当、ありがとうございました」
赤木先生もいう。「これからも頑張ってね」
それだけでよかった。その安心を胸に大学へいくのだ。
私は保健室を出て少し泣いた。そして友達や部活の仲間が待つ上の階へ急いだ。


保健室とは無縁の生活をしてきた私。
だけど、ひょんなことから関わりを持ち、自分自身のセクシュアリティーの悩みと少しだけ対峙できたり、先生からの温かみを勝手に飲み込んで安心へと変えることできる場所となった。
卒業してから赤木先生には会っていない。会う気もない。だけど、多いに感謝をしている。

常に開かれた場所というのは、迷ったり、ふらふらしてしまうときに意外と私たちを支えてくれたりする。そしてそれはどんな時に巡り合うかも予測ができない。
今でも行政やNPOなどが実施する、さまざまな悩みに関する窓口のポスターなどを見ると、どこかで迷っている人が巡り会えたらいいなと、過去の自分を重ねて思ったりする。

国葬や宗教などのニュースに触れていると縮小や分断、公職者の暴走が進んでいるように感じる昨今。
ただ、さまざまな地域で、悩みや困り事に懸命に立ち向かい、寄り添い、考えている人たちが犠牲とならず、前進や緩和をしていけるようになることを願っている。



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