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青春とは可能性の消費である。

青春とは可能性の消費である。青春小説を読むとこのように思うことがしばしばあるのだが、その考えの原点になっているのは森見登美彦さん著の『四畳半神話体系』

京都で大学生をしていた頃に読んだ。

主人公も大学生。四畳半のアパートで何かを頑張るわけでもなく、無益な毎日を過ごしている。大学生活にはさまざまな可能性が眠っている。

あのときあのサークルに入っていたら…。そんな彼の仮想の大学生活、いわばパラレルワールドをめぐるお話が繰り広げられる。お話というか妄想か…。

同じ京都の大学生ということもあり、親近感があった。自分も似たりよったりな無益な大学生活を送っていたし、おそらくほとんどの大学生が程度の差こそあれ、似たようなものだろう。

もしあのとき◯◯をしていたら、という想像は誰もが一度はしたことがあるのではないか。大学生の頃の僕もしばしば、あったかもしれない可能性に想いをはせた。

あのときおの子に告白していたら。もし違う学校に入っていたら。もし一人暮らしをしていたら。いまとは異なる道を選んだ場合の未来を妄想した。暇だったのだろう。少なくとも慢性的な現状不満足状態であったことは間違いない。

しかしながら、残念なことに、このような妄想から何かが生まれることはない。皆無である。ただただ可能性を消費していった。


社会人になって仕事をはじめてからは、こういう類の妄想をすることはなくなった。忙しくてそれどころではなかったのもあるけれど、過去をやりなおしたいという感情そのものがなくなった。大変なことがたくさんあって、それを多少の苦労をともなって乗り越えてきた自負はある。再度、それをやり直すのはご勘弁…という心境になっている。

中島らもさん著の『砂をつかんで立ち上がれ』というエッセイのなかで、若さと歳をとることについて述べられており、その意見に自分も同意した。

若いということは、流行歌にもあったけれど「道に迷っているばかり」で、楽しさの裏にいつも不安がつきまとっている。知識はあるが智恵がない。プライドはあるがそれには根拠がない。志は高いが評価は低い。要するにいいことはあまりない。
おれは金を積まれても二十歳にもどるなんてまっぴらである。ナイフの切っ先の上に立たされているような、あんなキリキリ痛い時代にもどることなど考えたくもない。 その反対に、いまの自分の「中年具合い」というのはけっこう気に入っている。年々、ものがよく見え、よくわかるようになっていく気がする。自分が刃物だとすると、年々切れ味の鋭さは鈍っていくけれど、自分の使い方の技術は少しずつわかってきたような。

僕も20歳に戻りたいとは思わない。戻るのであればいっそのこと、まだ何にも考えなくてすんだ小学生とか中学生くらいがいい。

20歳のときには、こころの底に不安と焦りが常に溜まっていた。将来は何か立派な仕事をしているのだろうという漠然とした期待はあったが、それとは裏腹に実力も行動も伴わないから余計に苦しい。

特に苦しみを助長させたのは就活。まだ何も結果を出せていないなか、学生同士で競いあわねばならない。学生時代に何をやっていようと、人生という大きな時間軸で見たときにほとんど差はない。どんぐりの背くらべである。

僕はこの競争が不毛に思えたので、早々に就活からドロップアウトして、できて間もないベンチャー企業に入った。見方によればチャレンジャーでもあったし、就活から逃亡したとも言える。両方の側面があった。

いま28歳であるが、あのころよりもはるかに精神衛生上、健康な生活をしている。よくも悪くも将来の可能性は限定されてきたが、限られたカードで戦わなければならないからこそ迷いも少なくてすむ。

そこでふと思う。現代人の本当の成人は、モラトリアムが延長された結果、30歳くらいが適正なのかもしれない、と。仕事も手についてきて、ようやく自分を受け入れることができる年齢が30歳くらいな気がする。


つい先日、新しく発売された『四畳半タイムマシンブルース』を読了した。神話体系の続編だ。そこには、再び森見ワールドが広がっていた。

読み進めているうちに、終わってほしくない…という気持ちがそこにあった。頻繁にあることではない。世界観にひたって居心地がよくなってしまったときに、そうなることがある。

ストーリーがあまりにも面白い作品は、そんなことを考える暇もなく終わってしまうのだが、この作品の良さはむしろストーリーのくだらなさにある。くだらないから、終わってほしくないと考える余裕があるのだ。

前作と変わらず四畳半で無益な生活をする大学生。今回は、タイムマシンが登場して、過去と現在を行ったり来たりする。主人公をとりまく荒唐無稽な大学生がたくさんでてきて、過去をめちゃくちゃにしてしまいそうになる。それをなんとか食い止めて、辻褄をなんとか合わせようと、奮闘する。

シリーズをとおして、この作品は大学生の持つ可能性をテーマにしている節がある。たとえば、映画サークルの先輩が、後輩にサークルに入るべき理由を熱弁した。

君という人間の価値はその無限の可能性にこそあるんです。もちろん薔色の生活が待っているとは保証できない。ヘンテコな宗教系サークルに引っかかるかもしれないし、サークルの内紛に巻きこまれて深く傷つくかもしれない。しかし敢えて僕は言いたい。それでいいんだ。全力で可能性を生きるのが青春なんだもの。

若ければ若いほど、わからないこと、知らないことだらけである。だけど、わからないからと言って選択の可能性を限定すべきではないのだろう。むしろ、無知であることを武器にして、未知に飛び込んでいくべきなのだ。何も持っていないかわりに、なんにも失うものがないのだから。無限の可能性を燃料に全力疾走できる。

大学生は、とにかく燃費が悪い。しかし、未来の可能性という燃料はたんまりと蓄えられている。ポンコツのエンジンを積んだ、だけど燃料だけは膨大にある車のようなものである。

歳をとればとるほど、先に何が起きうるのかわかるから、無駄な動きをしなくてすむ。エネルギー効率がとてもよくなってくる。可能性が限定されるかわりに、知恵からくる燃費を手に入れることができるのだ。

年齢を重ねることによって失うものがあるとすれば、未来の可能性なのだろう。そして、可能性の燃料が枯渇したとき、その人の青春は終わるのだと僕は思う。20代で青春を終える人もいれば、50代まで青春を続けているような人もいる。可能性の代わりに家族や会社への責任、過去の誇りを燃料にしている人もいる。

何が良いか悪いかは本人が決めることであるが、願わくばまだもう少しは未来の可能性を燃料に、走っていたい。燃費が多少いいエンジンに載せ替えて、そして、ちょっとだけ減っちゃったけど可能性を積んで。

可能性が消費できる限りどこまでも。

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おかしょう(TwitterInstagram)


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