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「朽ちゆくものの美」こそ、絶望を肯定する

 「自分のことなんて、誰もわかってくれない」なんて言ってこうべを垂らして、小部屋に篭って、関係性を自ら断絶して、分かり合える可能世界を消失させて、そのくせ世界を嘆いて誰かのせいにして、それでいて他でもない自分自身に一番嘆いていることに気づかないフリをしていた時期が、20代始めにあった。

 世界は自分自身の欲望や精神的欠損が投影され、ぼくの前に現れる。そういう認識を持ってからは、余計に自分自身が惨めで、健気で、憎らしかった。「分かり合える世界を」なんて絵空事を掲げて、その実もっとも世界を閉ざしているのは自分自身だという真実は、若干20歳のぼくにはあまりに残酷だった。

 何より、まずは自分が世界を理解する「姿勢」を貫かねばならない。そうした、理解してほしい欲望はいつしか使命感へと形を変え、ほとんど偏執狂みたいに人間と世界への理解を希求し続けた。文字通り「夢か現か」判然としないボヤけた世界線を生き続けた。今にも消えそうな生の輪郭をなんとか保とうと、世界との接点を探し続けた。

 そうやってあくせくしてみた時期もあり、逆にゆとりを持とうとした時期もあり、様々な実験を経て積み上げてきた25年間の個人的歴史の中で、特異点が立ち現れている。あるいは消失点か。若干20歳に訪れた絶望と同様の憂鬱。

 その憂鬱によって、世界を理解しようという大仰な志に立脚した人生が、ぽろぽろと崩れ始めたのだった。身体に付着した泥がからからに乾いて崩れ落ちるように、じっくりと、それでいて確実に朽ちていく。水脈が尽きた身体には湿度が戻る気配はなく、輪をかけて砂と化し、落ちていく。精神が朽ちていく恐怖をありありと感じる。希望の陽光は、どこにも刺す気配はない。何よりそれが恐怖であり、虚無を募らせた。

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 南禅寺を訪れた。東山の麓にあり、清水寺や金閣寺のような「THE 観光地」とはまた異なる美がそこにはある。岡崎公園前のバスで降りると、ほとんどは平安神宮に向かった。そういう分かりやすさを放棄した粋な人間だけが南禅寺方面へ歩みを進めた。粋であることは素晴らしいことだ、と常々思う。「イキってる」の語源は「粋」だという。それなら、「イキる」ことは必ずしも悪いことではないのかもしれないな。あ、ちなみにこの話は嘘です、あるいは本当かもしれないけれど、個人的な妄想です。でも、粋なやつだけは信用できる。そう信じてる。

 岡崎公園を出てほどなくして、蹴上インクラインが見える。中に入り、傾斜を上方へ向かって歩く。整備された歩道ではなく線路の中を、心地よい歩きにくさを携えて登る。川か、水路か、近くを流れる水の音が気持ちいい。水がないと住めないな、そういえばこれまでの住まいはずっと近くに川があった。ある2年間を除いて、という注釈がつくが。

 南禅寺の敷地に着いた。石川五右衛門が「絶景かな」と口にしたという三門を抜けて、しばらく歩く。少し奥まったところに、有名な「水路閣」が見当たった。その瞬間、息を飲んだ。呼吸が止まった。あまりに美しかった。「美しい」というのは直接的すぎて憚られるほどに。進歩と歴史を共存させた深みのある文化が、その景観から嗅覚を通して伝わってきた。梅雨はあいにくの雨を降らせたが、湿度のせい以上に重たい空気が半袖から出る二の腕を刺激した。

 あいにくの雨、といったが、むしろその雨が水路閣とその周辺の景色に深みを与えた。鈍い日光は水路閣の奥に茂る緑を陰鬱に香らせ、一方で水路閣を淡く照らした。19世紀の文明開化まもない頃に日本人によってせっせと建てられたヨーロッパ風のレンガづくりは、今ではすっかり朽ちている。説明のできない白みがかかり、ところどころ苔がむしたような、決して「綺麗」とは言えない見てくれ。曇り空を縫って放出された鈍い陽光が淡く反射し、朽ちゆくレンガ建築の陰影をささやかに強調した。手前では、陰鬱とした緑とは打って変わって、信号のような鮮明な青を発する青もみじ。同じ植物とは、同じ葉っぱとは思えないほど異なる色を持ったコントラストが艶やかで、水路閣の朽ちた陰影と相互に補い合う。

 とにかく、言葉を尽くしてもとても説明しきれない美しさだった。もしくは、「美しさ」は説明が増えれば増えるほどその手を離れていくのかもしれない。野暮なことをした。これ以上は、雨の日を見計らって南禅寺に足を運んでほしい。

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 このような実感を「感動」と一旦呼ぶ。「感動」とは、外的な刺激によって目の前に立ち現れるものではない、と考えている。外的な刺激はトリガーにすぎず、あくまで内的な欠落や欲望が刺激と共鳴し、魂の内側からとめどなく溢れるものこそが「感動」だ。「ジーンとした」なんて擬態語を使うのはまさに、内側から溢れ出る制御できないエネルギーの放出に対する控えめな言語化が見て取れる。感動が、魂が息を吹き返すことを言うのかもしれない。

 じゃあ、この「水路閣に対する感動」は一体どんな魂の放出なのだろう?どんな欠落と美の共鳴なんだろうか。そこにどんな仮説が生まれるのか、文章を書きながら確かめる他ないと、ほとんど衝動的にこの文章を書いてみた。

 書く中で浮かんだ仮説はこうだ。「朽ちゆくものの美」が生を肯定してくれたことに対する情動。ぼくの朽ちゆく精神がありようによっては美しくいられるかもしれないという可能性に対する湧き上がる希望だ。

 確かに、世界は完璧ではない。完璧な人間も完璧な国も存在しないように、世界が完璧であることは一瞬たりともあり得ないだろう。だからこそ、不可逆に進んでいくように見える時間の中で、価値や正義や幸福や善を増やし続けるように世界は呼吸をしてきた。常に過去どのタイミングから比較しても現在が最高であり、そして未来はさらなる最高が待ち受けるかのように生きた。最高を更新し続けることが、ほとんど無思考に真として疑われない命題だった。アメリカ的な単線的な上昇が見直された一部のヨーロッパ的思想も、結局は螺旋的に持続的に上昇し続けることに正義を置いているように見える。

 でも、ぼくたちは目を背けてはいけない。命は、生まれた瞬間から常に朽ち続けるんだ。宇宙がビックバンの瞬間にこそもっとも高密度なエネルギーだったように、受精卵となり分裂を始めるまさにその瞬間から、生命のエネルギーは肉体同様に果て続ける。残酷な真実。生があれば、死がある。始まりがあれば、終わりがある。出会いがあれば、別れがある。宇宙全体のエネルギーが保存されているかのように、何かが死んで、別の何かが生まれる。

 つまり、いくら上昇を志向したとしても、常に朽ちゆくのがぼくたち人間の定めなのだ。残酷で、儚くて、切ない真実。ぼくらが美しいと思うものはだいたい儚い。水路閣はまさにそうだった。片手間であっさりと済ませる感動ではなく、身がよじれ、震え、どうしようもなくなるあの感動は儚さだ。自分の、もしくは自分が類する「人間」に抽象的に与えられた変えがたい宿命を投影し、美を感じたのかもしれない。感じたものと朽ちゆく定めが共鳴したところに本質的な美があるのかもしれない。

 そうか、そうであるならば、朽ちゆく精神を肯定した上で、それでも進むという意思決定ができるのかもしれない。枯れていく水脈を受容した上での人生の創造。世界の想像と創造。「朽ちる」ことすら肯定できる世界線は、唯一人と人とが分かり合える可能性を孕んでいるかもしれない。

 狼だぬきの、どこまでいっても個人的な人生を肯定する有力でしたたかな仮説が生まれた。儚いものの美、朽ちゆくものの美が生命の根源なんだ。絶望の肯定とは、朽ちゆく魂の受容にこそ鍵があるのだ。なんだか、強力な武器を手に入れた気がする。目には見えない、そして誰にも傷つけない武器。それを武器と呼ぶのかはわからないが、少なくとも可能性を紡ぐものではあるだろう。あるいは、希望と呼ぶのかもしれない。

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